クリーオウがヒロインなんてありえない!と思っている人こそ「キエサルヒマの終端」を読むべき


あるいは、「最後のヒロイン」クリーオウ・エバーラスティンの遍歴。


オーフェン」という作品を読解する上で、クリーオウは最も難解なキャラクターの一人だ。それは、内面が描かれることが少ないからだと思う。特に西部編において、彼女はデウスエクスマキナとしてストーリーに関与してきた。東部編では打って変わってオーフェンが魔王型主人公になることでクリーオウの内面が掘り下げられていくのだけど、西部編とのテンションの違いに少しついていけないところはあった。が、「キエサルヒマの終端」まで読み、そこから逆算で一応自分なりの結論が出た気がしなくもない。


そもそもクリーオウは幼い頃病弱だったという(あの辺りの描写は自身病弱だったという秋田の実体験も混じっているのかもしれない)。それが回復し、長ずるにつれ、今までの分を取戻すかのように活発で好奇心旺盛な少女に育っていった。


クリーオウの好奇心は、魔術士という存在にも向けられた。社会にあって重要な位置を占めながら、どこか自分たちだけの閉鎖的な世界にこもりがちに見えた彼らは、彼女にとって歯がゆい存在だったらしい。そこにあの結婚詐欺師が現れる。彼女がそれまで見てきた魔術士たちとは何もかもが違い、だからこそ彼女の魔術士像そのものだったオーフェンに、彼女は開かれた世界への可能性を感じたのだろうか。ごく当然のように、借金回収の旅についていく。


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では、個人的にオーフェンに対してどんな感情を抱いていたかというと、男性として多少は意識していなくもなかった、というところだと思う。「獣」で恋人はいるのか、いなければ好きになるのはどんなタイプか、と聞いているが、あれは多分興味本位に過ぎなかったのだろう。アザリーを一心に追い求める姿勢に惹かれたのか、近寄ってくる女性に対して嫉妬じみたものを見せたりもするのは「機械」からだ。


が、オーフェンがなにげなく放った「相棒」の一言により生まれた「自分はオーフェンの相棒だ」という自己規定が、そうした恋愛未満の感情を覆い隠してしまう。オーフェンに相棒として認められたい、というのが本心ではない、というわけではない。が、ヒリエッタに、ティッシに、メッチェンに対して抱くいかにもヒロインらしい嫉妬が、オーフェンへの恋愛(未満の)感情から生まれていることを、当時は見てみぬ振りをしていた節はある。「後継者」「背約者」で「(魔術士しかいない場所に)わたしがいたって、いいじゃない」「誰も、来るなと言われればいちいち来たりしないわよ、きっと」と持ち前の聡いところを遺憾なく発揮して東部編の行方を示唆するような発言もしているのだが、一方で、常にどこかでオーフェンを意識しているマジクに比べると、オーフェンとの関係の中で出てきた言葉というよりは、元々漠然と感じていたことを口にしただけ、という印象が強かった。


2人の関係に変化が訪れるのは、オークリ派が狂喜した「楽園」のあのシーンだ。「じゃあ、頼むぜクリーオウ、これからもな」というあの台詞は、オーフェンからすると恐らくキムラックで個人的な事情から危険事態に巻き込んでしまったことへの謝罪と、まあこれからもよければ付き合ってくれというくらいで、特に深い意味はなかったのだろう。しかしクリーオウは、「これからも」という辺りに「これまでの」自分たちの関係はどういったものだったのか、考えてしまったのではないだろうか。




「魔剣」からは、オーフェンと「同質にして正逆」であるコルゴンと、自分とそれほど年齢が変わらないロッテーシャの夫婦関係を見せつけられたことも拍車をかけた。「緑」ではクリーオウに好意を抱くライアンに何か感じるところがあったのか、オーフェンのほうが、この今までごく自然に傍にいた少女が自分にとってどういった存在になりつつあるか、意識し始める。「来訪者」ではイールギットとティッシによる、まるでハーレムラブコメのような女の戦いが繰り広げられるのだけれど、そこにクリーオウが参戦しないのは、正ヒロインの貫禄か、精神的にそんなことをしている余裕がなかったからか。「扉」では、オーフェンのほうから「お前が望むなら女神だって殺してやる」とプロポーズまがいのことまで言われている。


が、結局のところ、東部編は二人の関係の結末を描くことなく、完結してしまう。




カタルシスが足りないとかあのキャラにもっと出番が欲しかったとかいう類の不満はあるにせよ、自分は今も、「我が聖域に開け扉」までで「魔術士オーフェン」という作品はある程度語り尽くされていると思っている。が、東部編をクリーオウの成長劇として見るなら、やはり「キエサルヒマの終端」を読んだ後では、「扉」の結末は物足りないとも思う。


秋田は以前、インタビューで「オーフェンの恋愛対象になりうるのは、まずオーフェンが人間として対等だと感じる存在だ」と語っていた。また、これは別のインタビューにおいてだが、具体的に結婚してうまくいきそうな異性としてコギーの名前を挙げている(これである意味オーコギ派が言質を取っちゃった形にもなっていると思う)。クリーオウも西部編からある意味対等な存在だとは言われていたが、恋愛対象になるにはもう一段階成長する必要があったのかもしれない。それまで天性の聡明さと好奇心だけに頼って、しかもそれがなまじいい結果を生んできたため自分を顧みることがなかったクリーオウは、東部編で絶望を知り、自分がそれまで物事をよく考えてこなかったことを知った。しかしその先は?―――それが(東部編の筆致からは信じられないほどに)真正面から描かれたのが「キエサルヒマの終端」だっだ。


クリーオウが名実ともにようやくヒロインになれた物語、それが「キエサルヒマの終端」なのだ。


etc

  • まあ、クリーオウが嫌いなんじゃなくて単にコギーやティッシが好き過ぎるんだよよちくしょおおおおおおおとか言われると返す言葉もありませんが。
  • 書いてから思ったけど、これオーフェン⇒クリーオウがどういった変遷を経て結婚に至ったのかの説明にはなってないな……。
  • BOXの感想で、嫌クリのあまり「お見合いで知り合った」マリアベルを嫁だと信じ込もうとしている人を見かけた。結局名前は出てきてないんだしそういうこと妄想する余地があってもいいよね。
  • あれだけずかずか人の内面に入ってきてステフやティッシ、メッチェン、サルアなど大勢の人に好かれてるっていう辺りは作品のテーマを象徴してるんだろうけど、その反動としてのライアンの「絶望を教えてあげたい」という気持ちも分からなくはない。本人は自分を無神経だとは思っていないのがまた。
  • 逆になんでコギーじゃ駄目だったか、ということにあえて理由をつけるなら、クリーオウと違って弁えてたから、オーフェンの過去に首を突っ込まなかった、っていうのはあるだろうなー。
  • マジクの「お前が好きだああああああああ!」は半分以上本心だと思う。ティフィスとクリーオウが一緒にいた時、自分からは何も言えずオーフェンに告げ口してみたり、色々複雑。二人の子どもに名前をつけることになった時の心境がしのばれる。早く弟子とくっついてオーフェンにタコ殴りにされろ。
  • 最盛期に現場にいなかったので2001年頃からサイト巡りをし始めた者の戯言なんだけど、ファンの間ではクリーオウ単体よりオークリっていうカップリングが強かった印象。コギーやティッシの男性ファンは結構見かけるけどクリーオウ単体のそれは、自分の観測範囲ではほとんど見かけないからそう感じるのかなー。
  • ファンロードオーフェン特集号(99年)を読む機会を得る。確かにオークリが圧倒的だった。
  • クリーオウの言はもし彼女から見た二人が普通の夫婦的な意味での関係を指してるなら、そりゃ随分自信家な発言だと思うんですよね。裏を返すと、そのくらいオーフェンだって私のこと大事にしてくれたわよという。実際大事にしてたけど。
    • 西部編では保護者と被保護者的な「大事にされてる」だったけど、東部編ではもう少し違うことは意識してるよな、とは。