なぜ異世界ファンタジー作品の主人公は旅をするのか

一巻完結が前提のライトノベルに、『旅ストーリー』って不利そうだよなあ。


「天竺を目指す」とか壮大な、シリーズ全体の目的を掲げておきながら、第一巻では途中で終わったり、シリーズ半ばで


旅を全て放棄して打ちきりになったりする可能性もあるんだろうなあ。


だから、「シリーズ全体を通しての大きい目的」って、作れないんだろうなあ。


ただ、その「シリーズ全体を通しての大きい目的」を楽しみたいんだよなあ。


http://d.hatena.ne.jp/iris6462/20061216/1166271881より


ひと昔前までは、まさにその「旅ストーリー」ばかりだったわけですが……。というか、打ち切りを恐れて「シリーズ全体を通しての大きい目的」ってのを作れないというのなら、なにもそれは、旅してなくても同じじゃなかろか。


で、リンク先の話とは大分ずれますが、タイトルの件について。


既読の作品から適当に選んでみました。実は、『目的がないよ派』の内、一応の目的があるものも存在します。『スレイヤーズ』の第2部では光の剣に代わるガウリイの新しい剣を探すため、『オーフェン』1部では借金の取り立て。でも、これらはあくまで建前に過ぎません。ここでは、シリーズ通して意識されてるような明確な目的がない、と考えてください。


そもそも『オーフェン』は1巻で終わっても続いてもいいようにああいうラストにしていただけのことで、作品的には1巻で終わっていてもなんら問題はなかった。これを信じるなら、旅する動機が希薄、というのはまあそりゃそうだわなあ、と思います。


さておき。タイトルの疑問については、商業主義の一言で済ませてもいいけど、やっぱりこの手の異世界ファンタジーのでっかい楽しみが、「世界観を楽しむ」ものであるから、かな?現実とは違う世界を舞台にするからには現実と違う部分が見所になるのはある意味当然で、だからあの手のファンタジーではそもそも職業=旅をする目的となる『冒険者』が流行ったのかな―とか。郷里の姉ちゃんことルナ・インバースさんの「世界を見てこい」発言は、まさにそのものずばり(ねえちゃんの裏設定とリナが後々果たすことになる役割、あの作品内の箱庭的世界観を考えると、この場合の『世界』ってのは色々と示唆してるようで妄想をかきたてられる)。で、まあ単に読者がその世界観を楽しむだけなら『十二国記』やなんかみたいに主人公を固定しなくてもいいわけだけど、視点は一つの方が国や街なんかの違いを比較しやすい、とか。


あとは、かわいい子にはなんとやら、の喩えを出すまでもなく成長物語と旅するファンタジーは相性がいい、とか。


それがコメント欄で指摘されてるように、94年当時読者が共有してるお約束だったのかどうかは分からないけど、でも、「年頃の女の子が一人旅する」ってのは、確かにあの当時流行ってたような気はする。


多分、ライトノベルだけじゃなくて、『指輪物語』辺りまで遡らないといけない問題なんだろうけど、流石にそこまで言及すると知識不足が露呈しそうなので、やめときます。