テレ東で、MARの後に、4月から夕方にやるアニメ新番を紹介していました。その番組自体は、まあ普通につまらないぐらいだけだったんですが、その中で子どもをメイドカフェに連れてくという企画が……。百歩譲ってオタクを弄るのはいいけど、ああいう場所に年齢が二桁にも達してないような子どもを連れてくなよ……。

明治大正翻訳ワンダーランド/鴻巣友季子/新潮新書

明治大正 翻訳ワンダーランド (新潮新書)


まだ法律も、情報のインフラも整っていなかった明治大正時代。現在にも繋がる革命的な翻訳が次々と生まれたその時代の、数々の逸話を紹介する。


原書の結末を変えてしまった黒岩涙香トルストイの小説を「この話はつまらないから辛抱して読んでくれ」と言い切った内田魯庵。最初の翻訳ではネロが「清」、パトラッシュが「斑」だった「フランダースの犬」。原作者が存在しない、翻訳者自身の創作物を翻訳物として売り出した佐々木邦……。今考えれば海賊版が大手を振って表に出ている無法地帯以外の何物でもないんですが、それだけに混沌としてて面白い。一般の人が自分で海外の情報に触れることなんか皆無に等しくて、必ず一部インテリのフィルターを通さなきゃいけなかった時代、いたずら好きのインテリの人にはたまらない遊び場だったろうなー。


最も、当然いたずら心だけで翻訳という仕事は出来ません。そこには、欧米の小説に含まれる要素を取り込むことで、世界に遅れをとらず日本文学向上を計ろうとする使命感がある。受けを狙ってトリビア的な面白さを求めるだけでなく、作者の、明治大正の偉大な翻訳家たちへの畏敬の念が、文章からひしひしと伝わってきます。


例えば9章「肉体を翻弄する舞台」では、実際声に出して読む演劇脚本の翻訳について、日本語はどの音でも必ず母音がついてくるが他の言語はその限りではない。声帯の震える回数が違っては、それは演劇として等しい表現だろうか、と悩む人がいて、その情熱にはほとほと頭が下がります(間投詞は元々人間が自然に発する音なのだから、東西共通するはずだ、という考えには疑問が残るけど)。


11章「絶好の売り時を逃すまじ」では、関東大震災直後「ボンベイ最後の日」という災害小説がよく売れた、という話が挙げられます。震災後、よくそんな話を読む気になれるなあ、と作者は思ったようです。しかし、題材は2000年近く昔のイタリアの天災で、作者は十九世紀のイギリス人。それから何十年か経って、日本人が介して読むという時間的、空間的、言語的な隔たりが人々にその本に手を伸ばさせたのだ、というのが作者の考え。なるほど、題材は身近なものだけど、現実の自分とは色々な隔たりがあるという微妙な距離感がそうさせるわけか、と納得しました。


それと、翻訳とは全く関係ないのですが、

兄いさんが留守になつてから初めての正月が来た。美しいカアドを送つて下すつた。今迄見た事もない、畳んだり開いたり出来るのがひどく嬉しくて、机の上へ飾つて置いた。其頃洋行帰りの人が尋ねて来て、兄さんの様子を話して聞せた。其中に藤子のやる手紙を順に壁へはり附けてどれだけ上手になつて行くか見ると云って居ると聞いて、又赤面した。


森鴎外の妹が書いた兄に関するこのエピソードで悶えてしまったり。閑話休題

翻訳とは違うものを同じように見せるだけではダメなのだとぴしゃりと言っていて、ハッとさせられるのである。とはいえ、異言語、異文化のぶつかる音は不協和音とはかぎらない。ひとつの言語が単独であるだけでは出せないような妙なる音が、翻訳文では鳴ることが間々あるから面白い。


「ああ、言葉が違うというのは、なんと豊かな不自由であるか」。次から、翻訳小説を読む時は、もうちょっとそこら辺意識して読もうかな。

とらドラ!/竹宮ゆゆこ/電撃文庫

とらドラ!1 (電撃文庫)


今、この作品のasinページを見たら、はてなだけで100件以上の感想があって驚きました。たけゆゆ、そんなに人気があったのか……


目つきが悪いことで周囲に誤解されることが多い主人公・高須竜児は高2の春、ちっちゃな暴れん坊、逢坂大河と出会う。


相変わらず疾走感に満ち満ちた文章で安心しました。正直人によっては無駄と感じるところも多いんだけど(里芋の煮っころがしの作り方をいちいち描写する必要があるのか、とか)、その場のノリに任せてだーっと書いちゃうところとか、秋山瑞人と似てると言えなくもない……かもしれません。


「田村くん」との違いは、主人公が比較的まともなキャラになって、暴走する役目がヒロインの方に渡されたことかな?そこらへん、ちょっと物足りなく感じる人もいるようだけど、私としては特に問題ありませんでした。してみると、前作でも今作でも暴走してるのはキャラがああだからではなく、筆致によるもので、この作者としてはデフォなんだ、という気もします。


と、いいますか、なんでこの人の書く思春期男子はこんなにも私のツボを突いてくるんだろう。彼女ができたらあんな音楽を一緒に聞こうとかクリスマスはこう過ごそうとか、それまで溜めに溜めた妄想が詰まったMDやノートを大河に見せるとことか、いいですね。いいですよ。主人公マジムッツリスケベ。体操着に浮き出る下着の線にどぎまぎ(これも微妙に古い表現ですね)するとか、もう、もう、馬鹿なんじゃねえの!?


その一方で、ノリを重視して書いたためか、ご都合主義というか、強引なところもやや見られました。まあ大部分はスルーしちゃえるんですが、主人公が超能力を使った……ような描写は、どうなんでしょうかね。出てくるのがあまりに唐突だったし、多分「火事場の馬鹿力」の比喩的な表現だとは思うんだけど、母親の過去のエピソードが、微妙に浮いていた気はするんだよなあ……


大河もみのりんもいらないけど、たけゆゆはください。たらこスパは苦手だけど、頑張って食べます。

蓬莱学園部活編 騎馬っていこう!/新城十馬他/富士見ファンタジア文庫

騎馬っていこう!―蓬莱学園 部活編 (富士見ファンタジア文庫)


短編集第3弾。

幽霊本塁打1号/新城十馬

誰もいないグラウンドで放たれ、観客席のベンチを破壊したホームラン。打ったのは誰か。恒例、名探偵知里しのぶ先生シリーズ。

前にも言ったけど、名探偵に必要な能力とは、論理的思考でもなければ不可能なことを排除していく手順のうまさでもない。肝心なのは想像力だ。

世の中、想像力について勘違いしている人はけっこういる。とくによくあるのが『苦しんだ末に、まったく新しい何かがパッとひらめいて生まれる。それこそホンモノの想像力だ』ってやつ。
バカバカシイったらありゃしない。
無から有が生まれるなんてのは、100年前の欠食詩人がヤセ我慢して唱えてたタワゴトだ。脳味噌は、そこまで便利にできてない。あるのは図柄(パターン)と、その組み合わせだけ。あたしたちにやれるのは、謙虚に頭の中と外を見つめて、基本的なパターンを探すことなのだ。


それぞれは関係ないように思われていた幾つかの事柄が、それぞれに進行していくが、最後には収束する。長編「犯罪」「魔獣」にしてもそうだけど、この人こういうの好きだなあ。ただ、なんだか起こった事件に対してあんまり興味が持てませんでした。

奇跡の三・三・七拍子/賀東招二

予算をかけた応援団とチアリーダー部の勝負。その中身は、各々選んだ学園生徒を応援し、それがどれだけ効果をあげたか、競うこと……。いかにもこの人らしいお話。むさくるしい応援団と華やかなチアリーダー部の対比が笑えます。後のフルメタ短編とノリは同じ。あっちも既に終了してるけど、やっぱりこの人にはギャグも書いて欲しいなあ。

正しい児童文学/賀東招二

怪しげな日本語を操る黒人学生が児童文学に挑戦。……うーん、こっちは微妙に合わなかったかも。色々と。しかしあれですね、作家とか編集とか、そういうネタ好きですね。

騎馬っていこう!/雑破業

表題作。「明るく健全な活動」がモットーの騎馬戦部。彼らの前に突如現れたのは、かつて部内の権力争いに破れ、復讐を胸に隠れ里で修行を積んできた「闇組」だった。勝負を挑まれ、応じる騎馬戦部。しかし、メンバーの一人が怪我をして試合に出れなくなってしまう。そこで投入された助っ人とはなんと女の子の姿をしたランプの魔神だった。


個人的には一番面白かったー。「騎馬戦」という、興味ない人間にとっても遠くなく、さりとて近くもない競技の設定が結構よく考えられてて、よいよい。ちょっと急ぎ過ぎのところもあったので、このネタで長編一本書いて欲しいなあ。場違いなあのキャラは……まあ「ポロリもあるよ!」がやりたかったのかなあ、とは思うけど、別にランプの魔神じゃなくてもいいような気もします。

SoltyRei#22-24「わたしと彼女と、少女の想い」Final message(最後のコトバ)」「これから」

「パパー」と言われて頬を染めるロイさん。娘が遠くに行っちゃうというのでやさぐれて酒に溺れるロイさん。恥も外聞も捨てて必死でソルティを引き止めるロイさん。「巌窟王」「ケロロ」に続き絶好調な中田譲治がまたもいい演技を見せてくれました。今回はダメなオッサン。最初はもっとハードボイルドなキャラで、いかにもアニメアニメした女の子と対比されるもんだと思ってたんですが、そういう外見のキャラが照れたり、泣き上戸だったりするのが、男でも最強のツンデレなんて言われる所以なんですかね。特にソルティを引き止めるシーンは、誰もが「俺も一緒に行く!」という台詞を想像した(この台詞にしても、むしろヒロインが言いそうですが……)と思うんですが、いや、非常に人間くさくてよかった。


ソルティとローズが戦い始めた時は、別のアニメが始まったのかと思い、「なんかそれっぽいこと言ってるなあ」くらいの勢いで聞き流していました。なんていうか、あの人たちってああいうこと言い出すキャラでしたっけ?どうも地に足がついていないというか、借り物の台詞を喋ってる、というような気がしたのは私だけでしょうか?


それ以外でもRUCの人たちを死なせる必要があったのか?とか、ソルティの正体についての伏線とか、色々ありはするんだけど、ロイ、ソルティ、ローズの家族物としては、結構軸がブレることなく完結させることができたんじゃないかと、そう思います。それが、GONZOAICを足した結果によるものなのかは分からないけど。


あと、クレイジーnotoさんはあんまり上手くはないということを再確認しました。まあいいじゃん。

REC#9「いつも2人で」

振り返ってみると、アニメはここまでで原作1巻分しか消化してないんですね。実質5話と短い話数の中でやることを考えれば、いい判断でした。


監督が「lain」の中村隆太郎で制作がSHAFT。もうちょっと奇を衒ったものになるかと思っていましたが、色使いとかは別として、わりと普通のラブコメに仕上がっていたような気がします。でも、「ぱにぽに」ぐらい画面内が騒がしいと私にはちょっと辛いので、これくらいがちょうどいいのかも。原作の花Qの絵柄だとシリアスやろうとしてもどうしてもおちゃらけてきちゃうので、ちょっと新鮮な体験でした。

びんちょうタン#9「クワガタついてるびん」

うーん、あそこで叫ぶのはどうなのかなあ。言いたいことを雰囲気で伝えるのがこういうアニメだと思っていたんだけど。まあ、そんな気にすることでもないか。実際、ああいう風に唐突に叫びたくなることってありますしね。


いくらキャラの仕草が可愛くても、草花なんかが綺麗でも、話の上で不幸「だけ」を売り物にされたらきつかったんだけど、ちゃんとびんちょうタンは頑張って、それが報われて、友達もできた。よかったです。BS-iではまだあと何話かやるみたいだけど、ここで終わってもあんまり違和感ない終わり方でした。

BLACK CAT#23「気ままな猫」

トレインが最後に放った弾丸がザギーネの横を通り過ぎてイヴのところに一直線に突き進んでったのは、もう二度と人を殺めることなく目的を達成しようとする、ナンバーズ脱退以降のトレインの生き様を表してたのかなー、とか強引に解釈。


力を入れるところを絞り込み、それ以外はとことん手を抜く。広義のリミテッドアニメを追求したような作品でした。なんとなく「ぱにぽに」の新房監督の作り方を思い出したんですが、あっちは省力化と演出がイコールで繋がってるから、狙うところが全然違いますね。でも、こういう作品を評価していいものかどうか迷います。刺激的な絵コンテではあったけど、最後の最後まで時系列があっちこっちに飛んで分かり辛かったし、第一、こういう作品ばかりになっても嫌だなあ。まあ、でも色んな意味で挑戦的……いやさ「革命的な」作品だったことは確か。その分凄い荒削りでしたけど。


あとは、クリード@三木眞一郎の何かが乗り移ったような演技と、イヴの可愛さが面白さの半分くらいを占めてましたとさ。