明治大正翻訳ワンダーランド/鴻巣友季子/新潮新書

明治大正 翻訳ワンダーランド (新潮新書)


まだ法律も、情報のインフラも整っていなかった明治大正時代。現在にも繋がる革命的な翻訳が次々と生まれたその時代の、数々の逸話を紹介する。


原書の結末を変えてしまった黒岩涙香トルストイの小説を「この話はつまらないから辛抱して読んでくれ」と言い切った内田魯庵。最初の翻訳ではネロが「清」、パトラッシュが「斑」だった「フランダースの犬」。原作者が存在しない、翻訳者自身の創作物を翻訳物として売り出した佐々木邦……。今考えれば海賊版が大手を振って表に出ている無法地帯以外の何物でもないんですが、それだけに混沌としてて面白い。一般の人が自分で海外の情報に触れることなんか皆無に等しくて、必ず一部インテリのフィルターを通さなきゃいけなかった時代、いたずら好きのインテリの人にはたまらない遊び場だったろうなー。


最も、当然いたずら心だけで翻訳という仕事は出来ません。そこには、欧米の小説に含まれる要素を取り込むことで、世界に遅れをとらず日本文学向上を計ろうとする使命感がある。受けを狙ってトリビア的な面白さを求めるだけでなく、作者の、明治大正の偉大な翻訳家たちへの畏敬の念が、文章からひしひしと伝わってきます。


例えば9章「肉体を翻弄する舞台」では、実際声に出して読む演劇脚本の翻訳について、日本語はどの音でも必ず母音がついてくるが他の言語はその限りではない。声帯の震える回数が違っては、それは演劇として等しい表現だろうか、と悩む人がいて、その情熱にはほとほと頭が下がります(間投詞は元々人間が自然に発する音なのだから、東西共通するはずだ、という考えには疑問が残るけど)。


11章「絶好の売り時を逃すまじ」では、関東大震災直後「ボンベイ最後の日」という災害小説がよく売れた、という話が挙げられます。震災後、よくそんな話を読む気になれるなあ、と作者は思ったようです。しかし、題材は2000年近く昔のイタリアの天災で、作者は十九世紀のイギリス人。それから何十年か経って、日本人が介して読むという時間的、空間的、言語的な隔たりが人々にその本に手を伸ばさせたのだ、というのが作者の考え。なるほど、題材は身近なものだけど、現実の自分とは色々な隔たりがあるという微妙な距離感がそうさせるわけか、と納得しました。


それと、翻訳とは全く関係ないのですが、

兄いさんが留守になつてから初めての正月が来た。美しいカアドを送つて下すつた。今迄見た事もない、畳んだり開いたり出来るのがひどく嬉しくて、机の上へ飾つて置いた。其頃洋行帰りの人が尋ねて来て、兄さんの様子を話して聞せた。其中に藤子のやる手紙を順に壁へはり附けてどれだけ上手になつて行くか見ると云って居ると聞いて、又赤面した。


森鴎外の妹が書いた兄に関するこのエピソードで悶えてしまったり。閑話休題

翻訳とは違うものを同じように見せるだけではダメなのだとぴしゃりと言っていて、ハッとさせられるのである。とはいえ、異言語、異文化のぶつかる音は不協和音とはかぎらない。ひとつの言語が単独であるだけでは出せないような妙なる音が、翻訳文では鳴ることが間々あるから面白い。


「ああ、言葉が違うというのは、なんと豊かな不自由であるか」。次から、翻訳小説を読む時は、もうちょっとそこら辺意識して読もうかな。