荒野/桜庭一樹/文藝春秋

荒野


第一部感想第二部感想


山野内家の伝説。少女は如何にして母親という存在を受け入れ、対等の立場に至り、これを乗り越えたか。あるいは、黒縁眼鏡を外さないで(セーラー服を脱がないで風に)。俺が秘密組織のただ一人の生き残りだ!

やがてぎゅうっと抱きしめられて、荒野は驚いて目を開ける。少年の肩の向こうで、風が吹いてまた、庭がぐらりとかたむいた。


えっ、えっ?この後2人はどーなっちゃったの?というような『荒野の恋 第二部』のラストから2年以上経過しての完結。その間に書かれた『私の男』という作品。文藝春秋社から完結編が出ると聞いた時に考えたのは、「文体が急に変わってたらどうしようか/大人向けに書くことの楽しさを覚えた作者がやたら生々しさ全開で来たらどうしよう」というものだった。順当に恋愛が進めばそういう展開もありうるしな、でもあの淡々とした雰囲気がぶち壊されるのはな、と発売までずっと悶々としていたのだけど、結論から言うと杞憂だった。

あの少女はずっと、いる。
遥かな荒野にたたずんでいる。
風が、吹くと、少女の髪が、揺れ……。


―――十五歳。
時は、流れた。


厳密には2部と3部の文章の雰囲気は少し異なるけど、それは1部と2部の間にあったものと同程度で、劇的なものではなかった、とは言える。1、2部も加筆修正されてるはずなのに、あまり違和感はなかった。父親の文藝賞受賞の様子が、ああ、これ実体験なんだろうな、と苦笑を禁じえなかったけど、まあ、大人向けで書くようになったことの余波はそのくらいだろう。あとは、

「ドレの絵だ」
「どれ?」
「十九世紀に、娯楽小説に挿絵をいっぱいつけるのが流行ったんだよ。バルザックの『風流滑稽譚』とかね。……それ、おもしろい?」
「おもしろい……」


ここらへんがちょっと引っかかったくらい。『荒野の恋 第二部』のあとがきでは「完結編となる第三部では、十七歳になった荒野と悠也、山野内家の大人たち、ひとりひとりの変化を巡るお話が描かれる予定です」とあるので、当初の予定とはズレたのは確かなんだろうけど、まあそれは別に。


全編通して、でっかい壁にぶち当たってそれを乗り越えることで劇的に成長するっていうんじゃなくて、大小様々なことの積み重ねが本人も気づかない内に変化に繋がっている、というのがよかったな。タイトルから「恋」が取れたのも、それだけを思春期の一大事のように捉えたくなかったからか。そもそも、1、2部からして荒野自身が恋愛している描写はそれほど多くなかった気がする。

ここで注目すべきは、この変化が大イベントを契機とせず、普通の人間が12歳から15歳になるまでに普通に手にするように、自然と為されて行くということだ。もちろん、父の再婚、悠也の洋行、妹の誕生やらはある。それに対して荒野が思うことももちろんある。しかし、これらのイベントを経るために彼女が成長するのではないことは強調しておきたい。たとえば、荒野が父と継母の夜伽を聞くのは、彼女が性を意識し始めた後なのだ。何かの知見が彼女を変えるのではない。彼女自身が変わったからこそ、それまで見えなかったものが見えるようになって来るのである。これは素晴らしい。

http://d.hatena.ne.jp/Wanderer/20080607#p1


これって一歩間違えると非常に退屈なものになりかねないと思うんだけど、そうはならなかったのは、やはりあの柔らかく、淡い筆致の賜物だよなあ、なんて。


総じて、直木賞受賞という一つの到達点の後の第一作に色んな意味で相応しい作品だった。或いは、これをもって桜庭は(『GOSICK』を除けば)少女というモチーフとしばしの別れを告げるのかもしれない。寂しいとは思う。が、いいだろう、好きに書けばいい。何か一つのモチーフを追い続ける作家もいれば、色んなモチーフに手を出す作家もいる。読者が好きに読んでいるのに、作家がそうしてはいけない法はない。今まで通り読んだ本を糧にして作品を生み出し続けている限り、また彼女たちに巡り合うこともあるだろう。