小説の読み書き/佐藤正午/岩波新書

小説の読み書き (岩波新書)


小説家は、普段どのような視点から他人の作品を読んでいるのか?といった疑問に答えてくれる一冊。著者によると、「書く」こととは「書き直す」、つまり推敲を重ねることと同義(関連するかも)だそうで。人によっては瑣末とも思えそうな、文体や、単語について、どうしてそこにその単語、文体を使おうと思ったのか、といったことについて言及していく。


ここをきっかけにして、手に取りました。なんだか、(俺の中の仮想)ワナビの人が好みそうな粗筋だなあ。そんな第一印象でした。


ここらへんの話とも関連するんですけど、普段、自分の読み方にいまいち自信を持てていない身としては、共感できるところがありました。本書の様式に則って文体から入るなら、この本って文末に「〜は明らかだ。明らかだと思う」、あるいは「〜である。〜のはずだ」といったような、一度断定したものを推量に直すような表現が多いんですね。多いと思います。取り上げている例が、故人と言えど基本的に明治以降の文豪ばかりで、自分の読み方を強く主張するのは躊躇したという可能性もあります。あるいは、普段からこういう書き方なのかもしれません。いずれにせよ、本書において著者は、自分の読み方はあくまで自分だけの読み方に過ぎないかもしれない、とい姿勢を貫き通しています。

読むことによってさらに小説は書き直される。読者の頭の中で、冒頭の一行は新たに書かれ、書かれていない指の長さが書き加えられる。さきほどの前提に立てばそういう話になる。読者の数だけ小説は書かれる。小説を読むことは小説を書くことに近づき、ほぼ重なる。

たった一行の文で、作家は読み切られることがある。小説のタイトルだけで、あるいは作家の名前だけでも、既に読み切られている場合がある。後世に作品が残っている(菊地寛のことだ)、昭和から平成にかけて物書きで飯を食っている(僕のことだ)、そのことはそういう不条理を含んでいる。宿命である。逃げられないし、責任の追及もできない。作家は作家になることを選んだのだから選んだ自分が引き受けるしかない。


同じ作家業に身を置く人間だから、普通の人より少しだけ作家の主張に近づくための素養を兼ね備えている、というのは正しい。でも、それはそれだけのことで。他の素養によって……例えば作者と個人的に近しいとか、境遇が似ているとか……それを補うことも十分可能だ、と思う。或いは、補う必要なんかないのかもしれない。


勿論、作家が言いたいこと、というのは厳然として作品の中にあるんだろうし、それを読み取れれば幸せなんだろうけど、自分にとって必ずしもそれが「正しい読み方」とは限らないんじゃないか。作品は作品として、自分の立ち位置で消化すればいいんじゃないか。この人の言いたいこととは違うかもしれないけど、そんなことを考えました。まあ、その自分の読み方をweb上で公開することの是非、というのはまた別の問題として存在するのだけど。でも、どちらかというと、自分の問題は、作家の主張を読み取ろうとしないことでなく、どこか考えがズレていることにあるんだろうな。

蛇足(一段目は本書の論旨?の一部/二段目が私の注釈)

  • AVのモザイクは単に邪魔だが、小説の場合、ほのめかしの描写のせいで、かえってそそられる
    • AVのモザイクがあくまで規制のためである、というのは多分正しいんだろうけど、見る側がそこに勝手に意味を見出して「そそられる」ということはあると思う。
    • でもまあここら辺は世代的な価値観の違いでしょうね。AVが普及したのってこの人(1955年生)が成人してからだし。
  • 本の描き手は読者の耳ではなく目を意識して文章を書く。つまり本は音読を前提にしては書かれない。
    • だから、音読に適さない読点のつけ方をしてもそれは本の評価とは関係ない……と続くんですけど、これはどうかなあ。いや、作家がどう意識して書いてるかはともかく、脳内で音読しながら読み進めてる人って結構いると思うんだけどなあ。
  • もともと一人称で私が語るということは、それは私の目に見えることを書いてゆくということだ。けれど、「私は〜だ」と普通なら書くところを「〜な私だ」と書いている場合、それは一人称の私の視点が一八〇度位置を変えて私自身を見ている。
  • 「自分を見る自分」という新しい存在物としての人称
  • (大学入試試験などで)いくつかのパラグラフを勝手に抜き取られ、改行したところを改行しないで引用し出題された問題文は、もう僕(=作者)の書いた文章とは呼べない
    • これは、web上で引用する場合も気をつけなきゃいけないことですね。引用する人は勿論、閲覧者の方も。ハイパーリンクしていれば、まだ髪媒体での文章に比べればこの手の問題は起きにくいのだろうけど、究極的には引用した時点でそれは引用者の文章だと思っといた方がいいのかもしれない。