フィクションにおける理想の空間/コミュニティ/人間関係


あくまで自分の話。……んー、ちょっと手を広げ過ぎたかな。あと、歴史的に重要なものだと、光画部@究極超人あ〜るとか、現代視聴覚文化研究会@げんしけんとか、SOS団@涼宮ハルヒとか、ネオヴェネツィアの人たち@ARIAとか色々あるんだろうけど、そこらへんはまたの機会に、もしくは他の人がやってくれるのを待った方がよさげ。


私は、その場所/コミュニティをずっと見てたいと思うことはあっても、自分がその中に入りたいということはほとんどなくて。それは、自分という現実的な存在が入っていくことによって、心地いい空間が壊れることが分かりきってるから。


なんか、オタクとしての自分を確立する時に『エヴァ』やら『リヴァイアス』やらにハマり過ぎてたことが原因かもしれないんですが、フィクションをフィクションとして楽しもうとしても、「こいつら、今はこんなに仲良さそうだけど、一皮剥けば腹の底でどんなこと考えてるか分かったもんじゃないよなあ」という思考が頭から離れないんですよね。仲のいい者同士でじゃれあっている光景なんか見ても、これはフィクションだから許されてるけど、現実だとこうはいかないよなあ、という考えを拭い去れない(いや別に現実に人間関係で嫌なことがあったとかではなくて)。『よつばと!』とか、そこらへんの不安を滅茶苦茶煽られる作品ですね。あれは、あずまきよひこが意識的にやってるような気もするけど、確信は持てません。面倒臭い性分だなあ、と分かっちゃいるんですが、そう簡単に変えられるもんでもないので、適当に折り合いをつけつつオタクをやっています。


だから、例えば『げんしけん』に出てくる人たちのことを、必ずしも理想の人間関係、理想のオタサークルだとは思ってないけど、常に腹の探り合いをしてて、それでも尚且つ仲がいいってのが、自分にとってフィクションの人間関係を安心して楽しむための担保にはなってたかもしれない。


おお振り』も自分にとっちゃ似たような感じかなあ。西浦に限らず、この漫画に出てくる球児たちは仲がよくて微笑ましいんだけど、一方で三橋みたいなタイプの人間がああも容易に受け入れられるかなあ、と思ってて。いつ破綻が起きるかびくびくしながら読んでます。でも、そこは三星でのああいう過去があるからこそ、西浦の連中としても読者の自分としても三橋の存在を許容してる、とか。阿部がわりと頻繁に三橋に対して怒鳴ったりするのも、その一因なのかな。あれを見てると、ああ、こういう風に怒ったりできる内はまだまだ大丈夫かな、と思えます。本誌連載の方では、ある人の登場によってそこら辺の問題が再びクローズアップされそうですね。