泣きたがるニッポン人

三日付けの朝日新聞文化面でこういう記事を見つけました。なんでも、

03年に行った感動に対するアンケートでは、10,20代は約5人に1人が週に1度以上感動し、3人に1人以上が、もっと感動するため意識的に映画を見るなどの行動をとっている。
(中略)
「感動巨編」は昔からある。だが最近の特徴は、病気などを「壁」にした純愛物語が、典型的な感動生産装置となっていることだ。

とか。他人に感動を与えられてないで自分が他人とのコミュニケーションの中で感動を見つけろ!ってことらしいです。黒沢さん@最強伝説黒沢言うところの「感動などないっ……!」ですね。なんか一時期のアンチkey勢力の言い分みたいだ。

「『セカチュー』に『消しゴム』?今どきの日本人、ちょっと感動しすぎじゃないですか」
瀧澤利行さんは言う。映画を見て泣くのではなく、逆にそんじょの泣かせ映画では感動すまいという皮肉を込めた集まり「流涙会」の幹事役を務めている。
「消しゴム」でも泣かなかった瀧澤さんは「病気の悲しみだけではだめ。周囲の葛藤や、それでも歯を食いしばって生き抜く姿など自分には到底及ばない姿にこそ心揺れる」という。

えーと、kanonじゃダメだけどAIRならオッケー、ということでいいのかな。


そもそも昔の日本人はそんなに感動的な出来事に遭遇してたのかとか、「感動」を煽ってるのはあなたたちマスコミと広告代理店でしょとか、ニッポン人より全米の人のほうがよく泣いてますよとか、幼稚な反論はいくつも思い浮かぶけど、それはそれとして。「泣きゲー」に対して「セカチュー」とかは「泣かせ映画」っていうんですね。この違いってなんだろう。ゲームは主体的に感動するもので、映画は感動させられるもの。そんな感じ?あるいは映画のほうは、観る側がより作品の向こうにある制作者の存在を意識してるとか。「泣かせゲー」とはあんまり言わないよなあ……。単に語呂のよさの問題かもしれないけど。


つうかフィクションで感動することを否定することより、ノンフィクションをごてごてと飾り立ててお涙頂戴に仕立て上げてることの方がよっぽど不健全に感じるのは私だけでしょうか。


オチ。

「感動した!」というセリフを流行語化させた宰相は、健在なり。