他人の顔/安部公房/新潮文庫

他人の顔 (新潮文庫)

おまえが下唇だけで、変な笑い方をしたからといっては、気に病み……おまえの視線がぼくを通り越して、遠くを見すぎているからといっては、それを苦にし……すすめたビールを断られたからと言っては、責め……調子よく飲みすぎたからといっては、こだわり……まるで、氷につかりながら、同時に熱湯をあびせかけられているようなものだった。また、パンをちぎっているおまえの指先―――ボタン細工でついた傷のことを別にすれば、水にひたした兎の皮のようなしなやかな指先―――に、うっかり左眼が、戦利品でも眺めるような秋波を送りでもしようものなら、たちまち右眼は、妻の密通の現場にたち合わされた寝取られ男のように、苦痛に身をよじらなければならなかったのである。まさに一人二役の三角関係だ。それも、《ぼく》と、《仮面=もう一人のぼく》と、《おまえ》という、図面に引けばただの直線になってしまう、おおよそ非ユークリッド的な三角関係だったのである。


事故で顔がグチャグチャになった男が、他人の顔を模した精巧な仮面を作って、妻の愛情を試すために別人を装い誘惑する。引用した文の通り、妻を誘惑しているのは紛れもなく自分であるはずなのに、《仮面=もう一人のぼく》に嫉妬を禁じえない、という捻じ曲がった構造が面白かった。エロ漫画とかでもたまにそういう、奥さん米屋です的なプレイを見かけるけど、流石にこの作品は仮面の材料収集やら何から(最初の方は延々とこれにページが費やされる)真に迫っていて、どきどきしながら読み進めた。公房は『密会』の、妻が病院でやっていることを会う人会う人が示唆はするんだけど、確定的なことは誰も言わない、あの焦らし方もNTR好きとしてはなかなか来るものがあったなー。


分かり易い、とは口が裂けても言えないけど、これまで読んだ安部公房作品の中ではまあ筋が追いやすくもあった。砂の女>他人の顔>>>友達・棒になった男>第四間氷期>密会>>>壁くらい。適当だけど。非現実的な要素が比較的薄いからかな?