童貞としての宮沢賢治/押野武志/ちくま新書

童貞としての宮沢賢治 (ちくま新書)


なんという扇動的なタイトル。『電波男』の隣にでも並べたら売れるかもね。『上弦の月を喰べる獅子』繋がりで手を出したのだけど、うーん。言いたいことは分かるのだけど、なんというか、主張が先行して論理展開を急ぎ過ぎてる感があって、ちょっとついていけなかった。こういう邪推は好きなんだけど。まあこういう批判ってどんな作品にも適用しようと思えばいくらでもできちゃうんだけどさ。

それはともかく、日本の明治以降も事情は一緒で、例えば新渡戸稲造(『修養』一九一一年)は、将来の強い国家建設の担い手である青年たちに、精液の浪費を戒めている。国の精力も落ちてしまうからだ。ここで重要なのは、私的な領域と思われていた性が、近代主義者たちによって国家存亡のテーマとして見出されたということである。
オナニー有害論の背景には、個人の身体を管理しようとする国家的な思惑が作用していたのである。

十秒の碧きひかりは去りたれば
かなしく
われは又窓に向く


入院中、片想いの看護婦が賢治の手を取り、彼の脈拍を「十秒」だけ数えていたのだろう。その時の想いを歌にしたものである。彼女に触れることのできるこの「十秒」の恋が全てであった。

この出来事だけに限らず、賢治のその女性への拒絶ぶりは尋常ではない。はじめこそ賢治の企画する芝居に出演してもらうことを考えて、しっかりした人だと協会員にも語って喜んでいたのだが、彼女の好意や贈り物攻撃に賢治は恐縮していく。彼女の積極性にたじろぎ、居留守を使ったり、わざと顔に灰を塗って出て来たり、手料理のカレーを彼女が持って皆にふるまった時、賢治だけが食べようとしなかったり、きわめつけは二度とやって来ないようにと自分は『レブラ』(ハンセン病)だと彼女に嘘をついてもいる。