語り手の事情/酒見賢一/文春文庫

語り手の事情 (文春文庫)


読んだのは単行本の方。

「そんな、なんで僕がし向ける様なことをしなきゃなんないんだい。それこそ面倒くさいよ。君はね、若い男をたぶらかして悦楽の地獄に連れて行く淫婦なんだから、遠回しなことを言っていないで本性を剥き出しにしてくれるだけでいいんだ。困るな、早く淫靡なときめきのヴォイスで呼んでくれないと」
「そんな無茶な。誰が悦楽の地獄に連れて行く淫婦なんですか。さっきから申し上げていますが、あなたにその気があってそうしたいのなら、あなたの力を使わなければなりません。妄想しているだけでは、物事は動きませんよ」
「ちぇっ、おかしいなあ。メイドとか女家庭教師はもう心底から淫乱で、いつも発情していて、男とあれば手ぐすね引いて待っている吸精の毒婦のはずなんだけどなあ」


父親のエロ本を読んでいてその手の知識……というかお約束だけはやたら詳しく、年上のメイドに手ほどきされたい少年。女装趣味を通り越して肉体的に女性そのものになりたいと願うおっさん。SM願望をもつ紳士。ヴィクトリア朝時代・イギリスの、抑圧された状況下で生まれた性妄想が"館"でひそかに解放される様を、メイドの姿をした"語り手"の視点から語る。


題材もアレだし、描写もかなり微に入り細をうがっているんだけど、ちっとも下品にならない。エスプリがきいてるってのはこういうことを言うのかしら。なんというか、インテリ童貞(この場合実際に童貞かどうかは関係なくて、その在り方、というかなんというか)の理想だなあ。で、終わり方がお見事で、読後感爽やか。なんとなく映画『パプリカ』のラストを連想しました。


んでー。問題は、オタクとしての自分がこの作品、ひいては酒見賢一という人をどう受け止めたらいいのかってことで。『殻の中の小鳥』が96年。この単行本が98年。そこに関連性を見るのは、乱暴かしらん。自分も、さるあとがきでこの作者の人が『YU-NO』を絶賛してるのを聞かなければ……。

この数年の間に僕がとくに面白かったSFはYU-NOである。
(中略)
当然ながらYU-NOはその年の日本SF大賞などにはかすりもしなかったが、僕はこの年の最良の収穫であったろうと思う次第である。18禁ゲームなどをやっているというと、高尚ならざる趣味ということで、まあ勝手にいろいろ思われたりするわけだが、面白いからやっていたのである。

http://love6.2ch.net/test/read.cgi/sf/977867899/292-294


まあ、デビュー作『後宮小説()』のキャラクター造型からしてなかなかアレだった(実際、直木賞の選評では「おたく(原文傍点)族の空想世界に近いような感じさえ抱かせられる」なんて言われてるし。でも、造型自体はそれっぽくても、その扱いはやけに無慈悲というかなんというか。そこらへんの噛み合わなさがこの人の肝なんじゃないかとも思うけど。この小説も、"語り手"さん始め、ツボを押さえたキャラを揃えてきてるし。『童貞()』は意識的にそこら辺を押さえてる気がした)ので、どっちにしろ「ああ、この作者はそういう人なんだな」と意識はしたかもしれないけど。


つーか、まあ、万が一作者の人が『殻の中の小鳥』から顕在化したと言われるメイドブームの文脈に乗っかってこの小説を書いたとしても、どうだってわけじゃないんだけどさ。そもそもメイドってのが、この小説では確かに一要素ではあるけど、一要素に過ぎないような気もするし。「文藝春秋から出たこの小説の起源は自分達に近いところにある!」なんてのもこっぱずかしいし。ただまあ……なんだろな、作中の妄想に取り付かれた人たちってのが、自分に非常に近しいところにいると感じちゃうから、そういう思考に走るのかなあ。なんにせよ、まだ3作しか読んでない自分がどうこう言うのは本来なら憚るべき問題ではある。悪い癖だ。でも、web上でそこら辺に言及したページが見つけられなかったのは不思議。結構面白い題材だと思うんだけどな。酒見賢一と漫画・アニメ・ゲーム文化について、なんて。


なんかもうこんなこと書くのも面倒くさいので、氏には一発ライトノベルを書いてもらいたい。や、ライトノベル、だけだと大雑把過ぎるな。今回のラノサイ杯でも『泣き虫弱虫諸葛孔明』が投票されてたし。氏には一発ライトノベルレーベルで書いてもらいたい、に訂正。ライトノベルから色んなところへの越境が流行っているんなら、その逆があってもいいじゃない。