原作つきアニメの作り方・シリーズ途中で評価を下すこと
京アニKanonは淡々としすぎを読んで。
- 自分が、京アニKanonを原作ではあそこはああだったここはこうだったという風に、当時を懐かしむ楽しみ方をしているのは間違いない、と思う。
- そして、原作信者フィルターをもってしてもこれまでの展開が淡々としてるってのは、そう間違った指摘ではないと感じます。
- 最後まで見てから評価しろ、という声もあるようだけど、既に話数の内、約3分の1消化してるわけだしなあ。暇さえあればすぐにでも続きをやれるゲームと違って、TVアニメって基本的にはリアルタイムで見るものだし(HDDレコーダーとかの普及で、それも徐々に変わりつつあるけど)、「現時点で淡々としすぎ」という評価を下すのは、別に間違いではないと思う。つーか、前半はフラグ立ての段階なので退屈で当然、と言ってる人がいるけど、退屈と分かってて1クール分我慢して見るのは苦痛だなあ。や、別に私は退屈してませんが。
- ハリウッド的な作劇法(100分の中で見せ場が3回くらいある)や週刊少年漫画の売り方(次週への引きを用意しておく)が,テレビアニメに対しても当然のように組み込まれているんだろうかと思った次第。最後まで視聴することを前提に作られていて、途中で脱落者が出ることを考えていない/或いは切り捨ててる?ってまあ、これも現在の展開が退屈、という人がいることを前提としての話ですが。
- 考えてみれば、TVアニメの採算方式がDVDで利益を回収するというものになってる、ってのが本当なら、それに合わせて内容が変わってもそう不思議ではないのかも。「あのね商法」とかばかりでなく。
- そもそも、原作序盤が退屈だからそれを忠実に再現したアニメも退屈で当然、という論法は正しいんだろうか?仮に原作の序盤が日常シーンばかりでお話の盛り上がりに欠けるのが事実としても、映像的に見てて退屈しないものに仕上げる、というのは不可能なんだろうか?筋が一緒でも、それを映像に起こしてる時点で既に京アニのオリジナルと言えなくもないわけで。……つーのは流石に極論だけど。例えば、3話の真琴初登板回。原作ではなんということもない場面だったけど、アニメでは真琴の正体を考慮して、それっぽい動きで画面の中を所狭しと飛び回る、見てて非常に楽しいものに仕上がってて、感心しました。そういうのを求めるのって、贅沢なのかなあ、とか。あとはやっぱりEDへの入り方とか。……いや、だから私は別に退屈してないんだってばさ。
- まあ、私は『AIR』の時こそ前半の日常描写が削られてることに不満を持ってた(これはもう1クールという時点でしょうがないですが)ので、今回淡々としすぎてて退屈だ、というのはちょっと言い辛いんですが。