アニメへの変容 原作とアニメの微妙な関係/竹内オサム・小山昌弘/現代書館
日本のアニメは、漫画やゲーム、小説などの近隣のメディアを原作とし、それらの影響を多分に受け、独自の道を模索してきた。では、原作とアニメ化された後の作品では、どこがどう違うのか。
なんでこんな本をうちの大学の図書館がすぐに購入したのかと思ったら、著者の一人が大学出身者でした。長くなったので以下隔離。
漫画のアニメ化における諸様相
- アニメーションは「漫画家が自らの絵を動かしたいという欲求」によって発展が促されてきた。
- 1話完結でなく、大河ドラマ形式のテレビアニメが多く制作されるようになったのは、明らかに長編漫画を原作とするようになったためである。
- 原作を読んで、そのイメージを抱えたままアニメを見るという「無理」を強いられてきた結果、ある世代以降は、漫画・アニメ双方に見慣れてしまって、原作漫画をアニメ化した際のギャップを意識せずに見ることができるようになったのではないか。
- これは、よく分からない意見でした。こういうのって、今も昔も減ってる印象全然ないんだけどなあ。
- 日本のアニメは、その成長過程でさまざまな絵のスタイルを持つ日本の漫画をアニメ化し、セル画ならではの肌合いを獲得してきた。「攻殻」の原作とアニメの大きな違いは、肌合いの感じられない無機質な絵柄を表現することに成功したことである。
- ああ、確かに。あの辺のキャラデザインを評して「リアル系」ということがあるけど、むしろ「漫画的でない」という言い方のが正しいかもしれません。漫画にも色々あるので、一概には言えないけど、なんというかあそこらへんのIG系のアニメってってキャラを崩さないんですよね。デフォルメしない。この辺りは、「パトレイバー」なんかも併せて考察するといいかもですね。詳しくないのでしませんけど。
鉄腕アトム、アニメのアニメ化
- 手塚治虫亡き後の制作された2003年の「アトム」では、現代ロボット開発の発展を鑑み、欲望が個人的なものから、より以上に社会的なものにシフトしている。
- 時代が変われば、テーマも変わる。原作者から解放されたアニメは、別のテーマをもつようになる。
進化しない「ポケモン」
- ポケモンが相性の悪さをはね返す場面は、見る側に感動を与えるクライマックスとなる。そしてそのような事実は、「ポケモンは強さだけがすべてではない」という私たちへのメッセージでもある。
- 日本アニメの特色として挙げられるであろう、「複雑な人間関係やストーリー、世界観」はファミリーアニメには不要。
- とすると、日本アニメを特色を生かして海外に輸出しようとする場合、幅広い層でなく、ニッチな層を狙うのが正しい?……それもなんかおかしいよなあ。
- ポケモンはファミリーアニメであり、成長型アニメでもあるという特殊な物語であるだけに、これを長く続けようとするなら、今までにない新しいパターンを考え出さねばならない。
- 「ONE PIECE」は、典型的なシリーズアニメに見られる、「対象年齢を下げて観客層を広げようとし、年上の子供たちに飽きられて終焉を迎える」ことがなく、逆に「観客の年齢層が上に上がっている」のだ。
- ここらへん、少子化も関連してたりして。
アニメのパロディー
- 「やおい」で素材として取り上げられる対象は幅広い。
- そういえば、なんで男性向け同人にはいわゆる「ナマモノ」って少ないんでしょ。いいとこ声優ぐらい?女性に比べて脳内変換能力が低いんでしょうか。
- アニメキャラが好んでやおいの題材とされることが多いのは、他のメディアに登場するキャラと比較して「"キャラクター"として最も<完成>されている」からである。
- これには同意。でも、続編などでデザインや声優が変わった場合はどうなんでしょうか。
- 「やおい」は、ホモソーシャルな社会をホモセクシャルな関係に読み替えることで、物語世界から排除されていた女性が主導権を握ることが出来る方法でもある。
- テレビのメディアとしての「いつでも・誰でも・気軽に」見れるという特性によって、少年向けアニメでも女性が見やすい。
- うーん、ここらへんはどうなんでしょ。そういう歴史があるのは否定しないけど、最近はあんまり関係ないような気もするなあ。
- 受け手があるカップリングの同人誌を買うということは、作り手が提示した読み替えに賛同し、共感したことを示す行動となる。
アニメ「風の谷のナウシカ」
- 「女神ではない。私も同じ人間です」と言わしめた漫画「ナウシカ」の結論は、アニメの全面否定であった。
- 原作が、その派生物として作られたアニメの影響を受け変わっていく一例。テーマまで変質させたという例はあまり聞かないけど、上遠野浩平「ビートのディシプリン」に出てくる「崩壊のビート」というキーワードは、「ブギ―ポップ」の漫画版「ブギ―ポップ・デュアル」が元ネタ、という話。あれはどこまでホントなんだろ?
「白雪姫」の変容
- グリム童話は改版のたび、文体や内容に加筆・改筆の手が加わっていった。当初は「耳で聞く物語」という民間伝承本来の記録に近かったものに、「目で読む物語」という新しく付加された性格が色濃くなっていったということである。
- 「白雪姫」が本来的に保有していた口承文芸としての力(=人の記憶に残り続ける力)によって、周知の物語としての形が、具体的な文字情報によらず再現可能だった。
- ウォルト・ディズニーは、自分自身こそが作品のすべての権利の所有者であることを明言し続けた。
- その結果が、あのガチガチの著作権防衛体制だったりするのかしら。
- 白雪姫の声優が決定したことにより声とデザインの相性がはかられるようになったことから、当初予定されていたキャラクターデザインの白雪姫は本編では採用されなかった。
- これ、結構凄いなあ。日本でもそんな頻繁にあることじゃないんじゃないでしょうか。アメリカ、というか海外では声優という職業は日本ほど人気ではないようだけど、必ずしもCVに熱心じゃない、というわけではないんですね。
「ジャングル大帝」が「ライオン・キング」成功の鍵
- 手塚は「バンビ」を知人の娘と観に行ったことがあったが、彼は映画館で場面を熱心にスケッチしていた。
- これ、手塚先生がやったから熱心さを伝えるエピソードになるけど、やってることはゲーセンで音ゲーのキャラを書き写してる人と変わりな……げふんげふん。
まとめ
以上のように、複数の著者による執筆なので、話題もかなりバラけています。主題的に見るべきところが多いのは、一つ目、三つ目、六つ目辺りでしょうか。決して原作とアニメの関係について述べた一冊の本としてまとまっているとは言い難いです。むしろ、多様な視点から見たメディアミックス論として受け止めた方が良いんじゃないでしょうか。