現実とフィクションと好き嫌い


ある作品を擁護する場合、「この作品は好みがあるから」というならともかく、「現実とフィクションをごっちゃにしてどうすんの」という言葉で何でもかんでも済ませてしまうのは好きじゃありません。それは、確かにフィクションを楽しむならある程度の寛容さは必要でしょう。例えば、極端な例ではあるけど、ドラゴンボール舞空術に対して空想科学読本的な(あれはあれでそういう楽しみ方だというのは理解してます)批判をするのは誰もがナンセンスだと思います。また、「頭文字D」に対して、この本を読んで若者が走り屋になったら困る、などという外部に与える影響を持って批判するのは納得できますが、それは作中のキャラを否定することには繋がりません。何故なら、「頭文字D」の中では、走り屋の存在が他人に迷惑をかける描写が(私の記憶が正しければ)ないからです。よくヤンキー漫画である、まっとうに生きている人を嫌なキャラに仕立て上げることで、不良を相対的に美化するという手法も見られません。公道カーレースを描くからといって、必ずしもその悪影響を描かなければいけないわけではない。そういう世界だからで納得できる。だから、私の場合、実際の走り屋が好きかどうかは別として、この漫画の走り屋連中は別に嫌いではありません。


でも、あるキャラの作中で描かれた行動をもって、好きだという意見は素直に受け止めるのに、嫌いという感情は「お前がフィクションを楽しめていないからだ」と排除するのは、私は好きではありません。だって、好きという感情が存在するのに嫌いという感情は存在しないなんて、どう考えても健全じゃない。そりゃ、それを延々と主張する人をウザいと思うのは分かります。みんなが楽しんでる中、一人だけが不満を言っている人がいるとしたら、それは空気を読んでいないと批判されるべきかもしれない。でも、そういう感情をひとえにその人の責任にしてしまうというのは、思考停止に過ぎないんじゃないでしょうか。


フィクションは現実と比べて、「これはフィクションだから」で片付けなければならない理不尽なことがそんなに多いのでしょうか?私は逆で、現実こそ「これは現実だから」で納得しなければいけない理不尽なことに溢れていると思います。フィクションだからこそ、一つ一つの現象に作者の考えが反映されていてほしい。別にこれは、「その方が面白いから」とか「話の都合上」とかでも構わないんですよ。納得は出来ないかもしれないけど、理解はできる。ただ、読者の側が勝手に「これはフィクションだから」で何でもかんでも済ませてしまうのだけは、やっぱり納得いきません。