大人のための文章教室/清水義範/講談社現代新書

大人のための文章教室 (講談社現代新書)


まあ、タイトル通りの本。WEB上に文章らしきものを公開し始めてから2年以上。常々抱いてる自分の文章の説得力や論理への疑問はいっこうに消えない。よって今回、この本を手にとってみることにした。


大人のための、と銘打っている割に仕事で使うような事務的な文章の書き方は少ない。むしろ私生活でのそれを書くための本である、という印象を受けた。時候の挨拶など、こういった文章読本ではお定まり(らしい)テンプレ文章も載っていない。作者独自の視点で書かれていて、読み物として読んでも面白かった。


ワープロ(PC)で書く文章と手書きの文章とで、違いはあるのか。筆者は、ワープロで作成する文章は、ともすればぶっらきらぼうになりやすいという。キーボード操作がぎこちないから、文章を早く終えたくなる。また、作業をしている手と、出てくる文章とに距離があって、なんとなくクールな気分になるというのだ。だが、私はこれは違うと思う。むしろ長文になる傾向が多く、推敲も手書きのそれより楽なのだから、言葉遣いも丁寧になるはずだ。もし筆者の言う通り文章がぶっきらぼうだとしたら、それは紙に書かない⇒形として残らないという書き手の意識のためだ。blogなどでも、日記であるという意識が強いせいか推敲をしないという人は多い。これはワープロを使っているからというより、単にその文章の目的からだろう。逆に言えば、手書きは直すのが面倒だから書く前によく考えている、という人もいるかもしれないが。確か、西尾維新か誰かの執筆速度が速いのは、blogと同じように手の赴くままに書いているからだ、とかいう話がユリイカかどこかに書いてあったように記憶している。だからblogには、あのような冗長に思える文章が多い。この辺りは、それこそユリイカblog特集などと比較してみると面白いかもしれない。


ユリイカblog特集感想
http://d.hatena.ne.jp/megyumi/searchdiary?word=%a5%e6%a5%ea%a5%a4%a5%ab


また、<です・ます>体と<だ・である>体についても書かれている。前者は上下関係へのこだわりが内在しており、逆に後者はそれを書いた人の立場や実態から離れた絶対の話者としての文体だという。私人として特定の人に語る場合と、公人として不特定多数の人に語る場合、という風に分けてもいい。そして、できるなら<で・ある>体の文章を書くべきだ、と筆者は言っている。概ねその通りだろう。しかし、ここで私が悩んだのは、blogの場合はどうするかだ。この日記は、基本的には<です・ます>体を使っている。放っておくと理屈っぽくなってしまう文章を和らげるためだ(今回は、この本を読んで文体を変えてみることにした。こっちの方が楽なのは確かだ)。だが、blogは本来は人に見せない性質である日記を不特定多数に公開する、という矛盾を孕んでいる。もちろんblogを意見の発表の場として使ったりする人もいるだろうし、用途は様々なので一概には言えない。だが、今までの媒体になかった性質をblogが持っているのも事実だ。また、多くのblogは絶対話者のテキストのすぐ下にコメントをつける機能がついている。テキスト本文で<で・ある>体を使っていても、そこでは<です・ます>体で対応しているというblog主は多い。これに違和感を感じるのは私だけだろうか。


他にも、読んでいて興味を持った箇所を幾つか挙げてみる。

  • 「つまり」などを多用する接続詞だらけの文章は理屈っぽく感じられる
  • 短文と長文をテンポよく配置する
  • 学者の論文は専門用語という「訛り」を多用する。公用文書は「全てを言い切った」というための文章であり、理解を求めていない。新聞の文章は主観がない。社説は中立を装って本音を隠している。「天声人語」などはかなりアクロバットで、一つ間違えれば爺さんの世迷言のようになる。これらを、普通の人は真似してはいけない。
  • 随筆では自分を変わり者として売ることや、「最近の若い者は-」などの論調はよくない。
  • 男性はとかく利口な自分を、女性はセンスの良い自分を自慢したい、という自我が文章に現れる。


まとめてみると書く人の立場に立って書け、というあまり面白みのない結論が出てしまう。だが、それにしても一つ一つの項目が面白く、例文なども面白く書かれていた。「プロジェクトX」風、「北の国から」風に書かれた業務報告書など、なるほど確かに読みたくない。だが思わず笑ってしまった。この清水義範という人は、「パスティーシュ」と呼ばれる他人の文体を模倣した小説を多く執筆しているらしい。読んでみたいが、その作品の元を知らないと面白くないだろうか。最近、「一般教養」という壁にぶつかることが多い。