の現代史−「萌え」とキャラクター-/ササキバラゴウ/講談社現代新書

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)


なんて恥ずかしいタイトルつけてくれるんですかササキバラ先生。
東浩紀動物化するポストモダン」が「萌え」の構造を探ってたのに対し、こちらは「美少女」がオタ文化を席巻していく歴史を追っていくという内容。

内容は、一言で言うなら「かわいいは正義」byメディアワークス
男オタクは旧来の「オヤジ的お色気コード」から脱する(「カリオストロの城」における不二子とクラリスの対比)ために少女漫画から「キャラ萌え」「恋愛」を輸入した。それは、例えば「○○○のために戦う」といった文脈で○○○に代入されるものが女性となり、「男の証明」が女性を通してのみ為されるという考えが定着していく過程だった。これにより物語、世界の根拠が女性に仮託された作品(風の谷のナウシカなど)が増えてゆく。こういう表現は屈折したパロディの結果であるはずだったのが、現在ではストレートでベタな表現として受け止められている。また美少女とは「見られる存在」としてのキャラクターであり、彼女達の前では男オタクは見られることなくただ見るだけの「視線としての私」となる。これは、80年代以降のエロ漫画に男性の姿が描かれないことに表れている。


「視線としての私」の辺りは感心したけど、最初の方はどうだろ。70年代から萌えはあったと言われてもイマイチ実感できないのはジェネレーションギャップ?これはこれでいいのかもしれないけど、最近の事情についてももうちょっと触れて欲しかったなー。ただ、男オタクの「萌え」は女性から輸入したものだという話は、SEEDやハガレンなんかが女性主導で流行っている最近の事情を考えると凄く納得。


つうか「視線としての私」のくだりで攻殻SACの「笑い男」を思い出した。


もう一つ。現在ニュースサイト、テキストサイト、blogが流行っているのは
>自分が何に注目しているかという「視線のさばき方」をディスクジョッキーのように
>リンクという形で示し、それを自己表現の手段としている
という説には同意。ディスクジョッキーって言うとなんかかっこよすぎですけど。そう考えると、ニュースサイトやblogにオタクが多いといわれるのもこれらを運営したいと思わせるものが萌えアニメ見たい、エロゲやりたいと思うのと同じところから来てるからだろうか。