ドラキュラ崩御/キム・ニューマン 根本靖子:訳/創元推理文庫
ドラキュラがヴァン・ヘルシングを打ち破っていたら?というIFから始まったドラキュラ三部作、一応の完結編。巻末の解説では第4作目の執筆が進行中とありますが、これが日本で出た2002年以降、海の向こうでも音沙汰はない様子。
とんでもない!ケイト、あなたは八十年をかけてほんものの生きた女性になったのよ。パメラには幾度かの夏しかなくて、だからこそ完璧に見えるの。チャールズにだってちゃんとわかっているわ。もし生きていたら、彼女もわたしたちのようになっていたはずよ。聖女ではなくて、もがき苦しむただの人間にね。
今回の舞台は、1959年の冷戦時代ローマ。ドラキュラ成婚に沸き立つ永遠の都。世界中から集まってくる吸血鬼のVIPたち。彼らの中でも特に長生者を狙った殺人を繰り返す<真紅の処刑人>……。いつもながら派手な展開ですが、しかしその実態はというと、前2作ほどのけれん味は鳴りを潜めています。今回の目玉の一つであったはずの、ディオゲネスクラブの放った諜報員でアストンマーチンを駆るボンド中佐も、影は薄め。特に中盤、あるキャラクターが物語から退場してからはアンニュイなムードが漂い、カタルシスもあんまりありません。それは、WW2及びヒトラーをスルーしたという時点でなんとなく予想してしかるべきだった気はしますが。
じゃあ何があるのか、というと、吸血鬼女性3人と彼女たちの中心にいる二人の男の生き様、人間的……もとい吸血鬼的葛藤、とか、陳腐と言ってしまえば陳腐なアレ。長生者の憂鬱。3人の女性のうち一人は、もちろん我らが600歳のババアロリ吸血鬼・ジュヌヴィエーヴ。もう一人は、赤毛そばかすメガネっ娘(転化しても近視だけはよくならなかったという筋金入り)のケイト・リード。そして、ジュヌヴィエーヴに婚約者を取られた高飛車お嬢様・ペネロピ(個人的には今回この人が一番好き)。彼女たちが、一人吸血鬼になることを拒んで晩年を迎えた『紀元』の主人公、ボウルガードを巡って恋の鞘当て……まではいかないけど、まあ、そんなような人間模様を呈していきます。当然イタリア映画的な色恋沙汰が幅を利かせてくるわけで、もうディオゲネスクラブをとっくの昔に引退して枯れつつあるボウルガードと、いつまでも年をとらず彼を見守っているジュヌヴィエーブ、なんて構図は『紀元』から経過した年月を考えて思わずじんときてしまいましたが、今回それだけではないわけで……。人間としてごく当たり前に年を重ねたボウルガードには然るべき結末、というものが待っています。
もう一人の男であるドラキュラは、タイトルに冠されているにも関わらず、このシリーズ通してのお約束として、今回も表に顔を出しません。その"崩御"は、この物語の結末としては拍子抜けではあったけど、でもブラム・ストーカー『ドラキュラ』の二次創作としては、きっちり〆てくれたなあ、という印象。
一冊の本が目にはいり、手にとった。ブラム・ストーカー作『吸血鬼ドラキュラ』、一九一ニ年発行の公式初版だ。ミス・キャサリン・リードその人による序文と著者の回想録が収録されている。この本が書かれたのは一八九七年ごろで、ジュヌヴィエーブも、<恐怖時代>にあまた出まわっていた地下出版物のひとつとして読んだおぼえがある。そもそもの原稿は、プリンス・コンソート・ドラキュラが英国における政敵を監禁していたサセックスの強制収容所からひそかにもちだされ、当時地下組織の英雄だったケイトが新聞社に整理して、<ベルメルガゼット>の印刷所に送りこんだものだった。ヴィクトリア女王崩御のあと、ドラキュラがしだいに残虐性を発揮しながら英国の玉座に固執し、人々のあいだで抵抗がひろまりつつあったあの過酷な時代、レジスタンスたちはこの小説によって再結集の契機を得たのだ。
奇妙な物語だ、と当時のジュブヴィエーブは考えたものだ。ストーカーの創作世界におけるドラキュラは、英国の権力の座につくことなく、現実において打ち負かした敵ヴァン・ヘルシング教授とその仲間たちの手で敗北させられる。ミナ・ハーかーもドクター・セワードもアーサー・ホルムウッドも、抵抗する力を奪い起こしてさえいればそうなっていただろう姿で描き出されており、現実の歴史を心得ている身としてはいささか胸をうたずにはいられない。記録や日記を集めた形をとっているため―――ジョナサン・ハーカーのトランシルヴァニア旅行記やミナ・ハーカーによるルーシー・ウェステンラに関する覚書など、現実の文書も混ざっている―――起こればよかったと思われる出来事ではなく、実際に起こった出来事をつづった記録のようにも見える。
世界の様相を一変させたにも関わらず、表舞台に姿を見せない。これって、巻末の解説でも少し触れているけど、原典であるにも関わらず、小説や映画、漫画などに数多くのコピーが氾濫し、その影ばかりが大きくて、小説そのものがあまり顧みられていない(実は自分も読んだのは去年という体たらく)という現状を、そのまま反映したものなんじゃないか、と思いましたた。そういう意味で、たとえ本人は出てこなくとも、いやむしろ不用意に登場させて活躍させたりなどしないからこそ、この小説は偉大なる先達へのリスペクトに溢れている二次創作なんじゃないのか、なんて。
あの世界の吸血鬼、吸血鬼のいるあの世界についての幻視
ケイトはずっと不器量だといわれてきた。赤毛も眼鏡もそばかすも、後期ヴィクトリアにおける美女の範疇からははずれていたのだ。だが美の流行は時とともに移り変わり、近頃ではそんなに悪くもないかなどと言われて、困惑することもしばしばだ。
ああキムやんほんとにこっち側の人間なのかなあ。いやどうだろう。海外にもmeganekko moeって存在するんだろうか。コンタクトが登場する時彼女はどうするのかな。
考えてもみて、ジュヌヴィエーヴ。彼はけっして歳をとらないのよ。その声が失われることはないの。もしファリネッツが生きていたら、カルーソーのような歌手が生まれたかしら。ヴァグナーが百歳のモーツァルトにかなうと思う?四十年後、いまはまだ生まれていない歌手が世に出ようというときになっても、そこではまだクリフ・リチャードががんばってて、絶世の美女が泣いたの話したの眠ったの歩いたのと歌っているのよ
理屈としては分かるけど。あんまり関係ない気もする。
アーサー・C・クラークが<タイム>に書いていたが、彼女のように年月を経て安定したヴァンパイアは、長期にわたる宇宙飛行に理想的な存在なのだという。標準より回復力が強く、長命であるから、人間なら数世代にわたる旅をまかせることもできる。食餌の問題も解決できるだろうという話だ
これって4作目以降でジュヌヴィエーヴが宇宙に飛び立つ伏線だったりして。妄想が膨らみます。