砂糖菓子のイラストは撃ちぬけない

我が青春、電撃文庫も無かった頃と仮定すると、イラストと言えば、天野喜孝さんとか、末弥純さんだったり、確かに凄い人がいた。
 でも、この人たちの凄さは、絵画的なもののような気がする。あんまり小説の中身とリンクしていない表紙が多かったような。挿絵という意味では、中身ときちんとリンクしている今の方が、イラストという意味で「質」が高いと言えるんじゃないかな?

http://novelno.net/archives/2007/06/17-132142.php


この絵画的なもの、という表現。ニュアンスとしてはなんとなく分かるものの、うまく説明はできないんだけど、むしろ、ライトノベルレーベルの挿絵は中身とリンクしたものばかりで想像の余地を奪ってるんじゃないか、とは言えないかなあ。なんか典型的なライトノベル批判みたいで嫌だけど。それは、単純に本文の描写を取り違えている、というのは論外だけどさ。なんて言ったらいいんだろう……そのままアニメになってキャラクターが動いてるところを想像できるものばかり、というか。それがライトノベルの特徴なんだから仕方ないと言われればそれまでだけど、一般文芸の挿絵なんかで偶に見る抽象的なものがあってもいいと思うんだけどなあ。


例えば『ミミズクと夜の王』なんか、そういう試みの一環としては評価できるし(未読だけど)。キャラクターを描く場合でも、『少女七竈とかわいそうな大人』みたいな画風がもっとあってもいい気はするし。あの表紙ですら、惹かれる人がいる一方で、ライトノベル的で恥ずかしい、と感じる人もいるようで、難しいところだけど。


ミミズクと夜の王 (電撃文庫)

ミミズクと夜の王 (電撃文庫)

少女七竈と七人の可愛そうな大人

少女七竈と七人の可愛そうな大人


話はちょっと逸れて。桜庭一樹、といえばイラストレーターの引きが自分好みの作家なんですけど。『GOSICK』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のイラストの比較、とかちょっと興味深い。基本的にそのイラストありきで作られてて、あとがきでの言動を信じるなら桜庭自身も結構影響を受けることが多く()、読者からも好評な『GOSICK』の武田日向と。これもあとがきでの言動を信じるなら、完全に作品が書きあがってから絵師を探したのであろう、とかくいらん子扱いされることが多い『砂糖菓子』のむーと。


前者はともかく後者について、表紙が恥ずかしくて買い辛いとか描き分けができてないとか本文の描写と合致してないとか単純に好みじゃないとかなら分かるんだけどさ。実際に読んでみてあのイラストが内容に合ってないって人は(イラストをつけることは前提として)じゃあどういう傾向のものならよかったんですかーと問い詰めたいぐらいには、ベストマッチだと思うんだけどなあ。あの、まさに"砂糖菓子"みたいな甘ったるいロリロリした可愛らしい絵柄で描かれたフリフリの服の下に現実をまざまざと見せつけられる傷が隠されてるからこその絶望、とか。そういう点で、このイラストは、抽象的なものでなくイメージを明確に限定する方向に働くものとして、多くのライトノベルよりよほど"萌え萌え"なイラスト(自分はあんまりそう思わないんですけど、世間の評価を見てるとどうもそう感じる人が多いらしく……ここでもギャップが)じゃなきゃいけなかった、と思うんですが。つーか、可愛らしい表紙で読者を騙しといて実は……って、わりと使い古された手段よね。


GOSICK―ゴシック (富士見ミステリー文庫)

GOSICK―ゴシック (富士見ミステリー文庫)

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない―A Lollypop or A Bullet

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない―A Lollypop or A Bullet


ライトノベルをより広い世界に輸出するに当たり、多くの人に手にとって貰うため、まずイラストを削る、ってのは効果的なんだろうけど。その度に不当に(つまり、売り方にそぐわないからってんじゃなくて、実はお前なんて最初から要らなかったんだよ!というような。まあ実際そういう例もあるんだろうけど)いらん子扱いされることがある絵師はちょっと可哀相だなあ、と時々思う。


……1ヵ月半ほど寝かしてみた話題なんだけど、結局うまくまとめきれなかった。