「キャラ」を見ずに「作品」を語るひとたち。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20061212/p1


「物語派」と「キャラ萌え」と「属性萌え」の対立
http://www.kotono8.com/2006/12/13character.html


……なんか、こういうのって私がオタクとして物心ついた時には既に始まってて、連綿と繰り返されてきた議論ではあるけど、いまいちピンとこないなあ。『萌え』が『燃え』を殺した、なんて論調もそうだけど。『萌えオタ』と一括りにできるようなオタクって本当にいるのかしらん。そら、個々人によって視点の偏りはあるだろうし、世代間でギャップが見られる、ということも否定しないけど。大抵の人が、『萌えオタ』としての自分、『燃えオタ』としての自分、『設定オタ』としての自分などなど、複数の側面を持ってるもんじゃないのかしらん。そういう風にカテゴライズするのって、単にコミュニティの中ではそういうキャラ付けをしといたほうが何かと便利だから、ってだけだと思ってたんだけど。


キャラ萌えのことしか語らない=キャラのことしか理解できてない、でもないしなあ。じゃあ自分のキャラ萌えについて語るのがなんで流行ったかというと、オタ芸の一種として分かりやすく面白いから、とか?


まあ多分、上の人たちはそういうの分かった上で、『萌え寄り』のオタク、『燃え寄りのオタク』について話してるんだろうけど。


あと、例えば毎晩終電帰りの社会人の人が、毎週30分の萌えアニメだけを楽しみにしてて、blogでキャラ萌えばかり叫んでたとしても、それは責められるべきことじゃないよなあ、とか。本格的に頭使ってお話に言及しようとしたら時間もかかるだろう(時間をかけたからといってちゃんとした考察が書けるかと言ったら、そうでもないのだけど)し、そんな暇がある人ばかりでもない、と思う。


なんかもう、我ながらなにがなにやら。なるほど、これがキャラ萌えしかできないことの弊害か。