かのこん(5)〜アイをとりもどせ!〜/西野かつみ/MF文庫J
敗因:それっぽい専門用語をうまく使いこなせなかったこと。途中から論旨がブレて、自分でも何言ってるか分からなくなったこと。
5巻目である。記念すべき第1巻発売から1年にして、本シリーズの売上は順調に伸び、今やMF文庫Jの看板になるまでに成長した。また、劇中でも耕太はちずるの積極的な触れ合いを抗うことなく受け入れ、安寧の地を手に入れたかに見える。しかし、物語の神は、このシリーズに対して停滞を許さない。
今回のテーマは、「失楽園」である。と言っても、10年程前に流行した有名な不倫小説のことではない。それはそれで淫靡なこの小説には似合うと思うが、しかし、ここでの「失楽園」とはそもそもの意味である、旧約聖書において人類の始祖が蛇にそそのかされ禁断の果実を食べてしまい、楽園から追放された、いわゆる原罪のことを指す。
このシリーズにおける楽園とは、即ち主人公たちが通う薫風高校のことである。この学校の目的とは、軽微な犯罪を犯した不良妖怪を、人間社会で生きていけるように更正する、というものであった。罪を犯し社会から追放された者が行き着くところが楽園というのは皮肉だが、しかし、作中での描写を見る限り、妖怪たちはきわめて自由に暮らしている。ちずると耕太に至っては、この学校で出会い、この学校で人目も憚らず、愛の営みを育むようになった。そう、それはまるで禁断の果実を食べる前、自分たちが生まれたままの姿であることを知らないアダムとイヴのように。
その楽園からちずるを追い出そうと、蛇ならぬ三珠美乃里は、一策を講じた。が、結論から言えば、これは初期段階から破綻をきたしており、失敗することは誰の目にも明らかだった。代わりに何が起こったか?―――それは、耕太の楽園そのものであった、ちずる乳房の消失である。
耕太に実母と過ごした記憶がなく、心理学で言うところの口唇期(oral stage)を通過していないため、これをちずるの乳房に求めている、というのは先人の研究によって今日既に明らかにされている。ようやく10数年来の欲望を満たしつつある耕太が、そこに楽園を見たとしても無理からぬ話だろう。
それが、唐突に消失してしまった。作中では美乃里の故意は読み取れないが、イヴを罠にかけた蛇の動機が、一身に神の寵愛を受ける人間への嫉妬であったように、耕太の愛を一身に受けるちずるの乳房への嫉妬もあったのかもしれない。
乳房を失ったちずるも耕太も、焦燥を隠し切れない。当然だ。口唇期は一般に生まれてから18ヶ月続く。その途中で母体から離された耕太の悲しみは、察するに余りある。昔から、高きところである山々には神が棲むと言われているが、双丘の楽園から、なだらかな平野に追放された耕太はどうしたか。「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」という望の助言に従って、尾てい骨に走ったのだ。察しのいい方ならお気づきだろうが、それは、口唇期の赤ん坊が自分の指をしゃぶるのと同じ、代替行為である。
しかし、代替行為は所詮代替行為に過ぎない。楽園を追い出された人類は、原罪を克服し、楽園に還ることを目指したのだ。耕太とちずるも、乳房を回復させるために、努力を惜しまなかった。
そして、努力の甲斐あって、ちずるの乳楽園は回復される。……が、そこがいまだ永遠の楽園である確証はない。既に耕太は、楽園の外の世界を知ってしまった。もっと肥沃で、豊穣な大地を求め、再び楽園を飛び出す日も、そう遠くないのかもしれない。
参考文献
西野かつみ『かのこん(1)〜(5)』メディアファクトリー刊
褒めちぎりスレの一連の褒めちぎり
