リヴァイアサン/ポール・オースター 柴田元幸訳/新潮文庫

リヴァイアサン (新潮文庫)


ある日、ある男が道端で爆死した。彼こそ、全米の自由の女神像を次々と爆破してきたテロリストであった。彼が何故そんな行為に至ったのか。その経緯を、男の親友であるところの「私」が、様々な観点から追う。


この小説の存在を知ったのは、桜庭一樹の日記集だったと思います。「自由の女神像」「爆破」「テロリスト」という刺激的な単語ばかりが脳に焼きついて、ハリウッド的なド派手なアクションを期待しながら本を開いたのですが、ぜ、全然違う!日常に無限にある岐路での選択の積み重ねが彼を狂気に走らせた、とかそんな感じ。なんというか、ラノベ脳乙って感じですね我ながら。


だからといってつまらないということはありませんでした。とにかく細かいエピソードの連続で話が成り立っていて、一見すると脇道に逸れてるとしか思えない(でも最終的には爆破事件の遠因に成りうる)ようなところまで描いているので、読み進んでいる内「本当に話は進んでいるのか?」と五里霧中な気分にはなります。それでも退屈しなかったのは、人物描写の豊かさ故なのかな。よくも1冊の本にこうも詰め込めるなーというくらい登場人物が多彩。特に、主人公と恋仲になる女性マリアの、探偵を雇って何日か自分を尾行させることで日々を刺激的にしたり、それぞれの日、決まった色の食べ物だけを食べる「色彩ダイエット」をしてみたり、といった奇行の描写は、それだけで本の1冊も書けるようなエピソードを惜しげもなくぽんぽん使うなあ、と勿体ない思いすらします。


彼らを巡る関係もまた多彩です。主人公と爆弾魔サックスの関係一つとっても、天才と凡人の対比が鮮やかでした。

どんなに小さな言葉も、私にとっては何エーカーもの沈黙に囲まれている。その言葉をページに書きつけたあとでも、なんだかそれが蜃気楼か、砂に埋もれたひとかけらの疑念のように思える。サックスにとって、言語は容易に手の届くところにあった。私の場合そうであったためしはない。私は自分自身の思考から閉め出されている。感じることと言葉にすることとのあいだの真空地帯に閉じ込められているのだ。それほど懸命に自分を表現しようとしても、たいていは混乱気味のどもりしか出てこない。サックスはそういう困難を経験したことは一度もなかった。言葉と物は、彼にとってぴったり調和していた。私にあってはそれらはしじゅうばらばらに分かれてしまい、百もの違った方向に飛び散ってしまう。執筆時間の大半、私はそれらの断片を拾い上げ、くっつけて元に戻す作業に明け暮れる。サックスはそういうぶざまな仕事とは無縁だ。ゴミ捨て場やゴミバケツを漁ったりすることもなく、このくっつけ方はひょっとしたら違っているんじゃなかろうかなどと思い悩む必要もなかった。


特に、この辺の、同じ作家としてのコンプレックスが剥き出しになってる辺りが、もう溜まりません。しかし、それだけの想いを抱えていても、彼らの友情は崩れない。作中では様々な出会いと別れがありますが、それでも彼らの関係は最初から最後まで一貫して変わらない。「彼」がテロリストになって全米から追われる身になってすらも。なんかもう、ウハウハでした。


ただ、全部を理解するには、私にはちょっと難しかったかもしれません。言ってることは多分、結構単純なんだろうけど。


それと、新潮文庫っていつ以来か分からないくらい久しぶりに読んだんですけど、行間が空いてる割に左右の余白が少なくて、読み辛い……。と思ったら、似たようなこと言ってる人がいました。→http://mayflytoo.blog36.fc2.com/blog-entry-69.htmlいや、まあ慣れたらそんな気にならなくなりましたけど。