「スレイヤーズ」「魔術士オーフェン」「フルメタルパニック」における「終わらない物語」「人の死なない世界」への視点

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20060607
http://d.hatena.ne.jp/kim-peace/20060608/p3


リンク先では「フルメタ」について話していますが、私は「スレイヤーズ」「オーフェン」についても少し。同じ富士見で長編シリアス短編ギャグシステムのお仲間ということで。あと「タイラー」とか「ヤマモトヨーコ」とか、言及すべき作品は多いのですが、私は詳しくないのでスルー。


シリアスな死を描かなかった「スレイヤーズすぺしゃる」

スレイヤーズ」の長編は、主人公・リナが美形だけど頭がゆるい剣士・ガウリイと旅をする話。短編は、その1年前、リナがまだ一人で旅をしていた頃の話です。ガウリイに代わって、ナーガというキャラが頻繁に登場します。


長編にギャグが入ることは幾らでもありますが、短編にシリアスが入ることは、基本的にはありませんでした。それが齟齬をきたしかけたのが、短編集3巻の「リトル・プリンセス2」。


リトル・プリンセス スレイヤーズすぺしゃる(2) (富士見ファンタジア文庫)


同巻に収録の「リトル・プリンセス」自体はいつも通りの話なんですが、その続編はそうではなかった。作中で、とある敵役が、復讐のために獣人になる力を手に入れた、ということが明らかになるんですね。この過去を、明らかに神坂一はギャグとして描こうとしなかった。どうして作品世界と齟齬をきたすことが分かっていてこういうキャラを出したのか、というのはよく分かりません。その後のオチとの落差を狙ったのかも?しかし、じゃあそのシリアスなキャラの顛末はどうなったのかというと……描かなかったんですね。リナと獣人の戦いは、「そして―――戦いははじまった。」という一文で途切れており、次のシーンで、リナの語りから獣人を殺したことが暗に示されます。


この回のことを、後に作者は「竜破斬一発でやっつけたけど、それじゃ身も蓋もないので描かなかった」と言っています。しかし、どちらかというと私には、ギャグ短編であるすぺしゃるでシリアスな死を避けたかったのではないか……という気がします。


現在、DM連載では、長編キャラであるガウリイやゼルガディス、アメリアなどの外伝もたまに掲載されているようです。


スレイヤーズすぺしゃる(26) ミッシング・セイント (富士見ファンタジア文庫)


ちなみに男性陣の話は結構シリアスとか。外伝は外伝なので、短編世界に彼らが登場する、ということではありません。しかしこれで、長編は完結しているから、短編が続いていても一度完結したはずの長編が上書きされることはない、という前提は崩れてしまったわけで、うーん。

オーフェン」の三つの時間軸

「プレ編」と「はぐれ旅」


オーフェン」には、三つの時間軸が存在します。一つは、主人公オーフェンが姉・アザリーを追いかける「はぐれ旅」。作中の時間的には、これが一番新しいものとなります。次に、「はぐれ旅」1巻でオーフェンが住んでいたトトカンタでの日常を描いたギャグコメディ、「無謀編」。そして、トトカンタにたどり着く5年前、オーフェンがまだ学生だった頃の話である「プレ編」。


よく「はぐれ旅」と「プレ編」は好きだけど、「無謀編」はそうでもない、という意見を聞きます。シリアスとギャグのギャップも障害になるのだろうけれど、「プレ編」は「はぐれ旅」のキャラ(=オーフェンの同窓)を掘り下げているから好き、といったような意見も多い。あくまで「はぐれ旅」が主で、「プレ編」はその補完、「無謀編」は全く関係ないからどうでもいい、という考えです。でもこれ、よく考えたらキャラが共通しているからこそ、両方楽しむのが難しいんじゃないですかねえ。


例えば、主人公の同窓であるコミクロンというキャラがいます。三つ編みお下げで白衣を着ている(♂)マッドサイエンティスト、という愉快な奴なんですが、彼は「はぐれ旅」1巻で、同じく同窓であるアザリーに殺されています。そんな人たちが、「プレ編」ではギャグでどつきあいをしたりするわけですよ。文字通り、洒落になりません。他にも、死んだり、化け物になったり、引きこもってしまったり。「はぐれ旅」でそんな暗い未来が待っていることを知りつつ気にしないことが、「プレ編」を楽しむためには要求されます。


「プレ編」最終話「ぼくのせんせいは」では、主人公の師匠が、ギャグ要員として登場したキャラを殺しています。まあ、ギャグ要員、という分類自体がどうかと思うんですが……。


これで終わりと思うなよ!―魔術士オーフェン・無謀編〈13〉 (富士見ファンタジア文庫)


この話の中に、こんな文章があります。

それまでの呑気さも無責任さも、すべてはこれが余興に過ぎないという認識に依るものだった。が、ことがそれで済まないとなれば、これは本物の脅威となる。それが真に敵するべき相手であれば、殺害までも含めた行動を取る―――取れるのが魔術士だった。


……なんだか、プレ編の後に待ち受けるシリアスなものを想像すると、色々意味深です。人が死なない世界はこれでもう終わりだよ、というメッセージに見えてしまうのは私だけでしょうか?。

「はぐれ旅」と「無謀編」


「はぐれ旅」と「無謀編」では、そんなに多くのキャラが共通して登場しているわけではありませんが、物語の性質に合わせて、キャラの性格は大幅に異なるように見えます。しかし、全く変わらないキャラもいて、それがボルカンとドーチンという亜人種の兄弟です。


彼らが何故変わらないでいられるか。それは、彼らの肉体が頑丈で、不死身同然だからです。彼らの物語上の役割とは、オーフェンに魔術で吹っ飛ばされることです。シリアスな場面でも、コミカルな場面でも、決して死ぬことはありません。


ここら辺は、「我が夢に沈め楽園」という長編が象徴的です。


我が夢に沈め楽園 (上) (富士見ファンタジア文庫―魔術士オーフェンはぐれ旅)我が夢に沈め楽園〈下〉―魔術士オーフェンはぐれ旅 (富士見ファンタジア文庫)



作中でボルカンが真っ二つにされ、それをドーチンはオーフェンたちに話します。しかし、彼らは一向に信じようとしません。結局は、ボルカンは死んでいなかったわけですが……。はぐれ旅は、本来シリアスなエピソードです。人の死を描く時は、相応の描き方をします。しかし、こと地人に限り、それを免れている。


不死身が確約されているからこそ、物語の都合でキャラを変えることなく同じ性格、位置づけで登場できる。ということは、やはり「オーフェン」でも、長編と短編の違いとは、人が死ぬか否か、ということに尽きるのでしょう。


結局、「無謀編」は最終的に「はぐれ旅」のスタート地点に繋がる形で終了するわけですが、その辺の経緯は長くなったので、隔離⇒http://d.hatena.ne.jp/megyumi/20060612/p1

フルメタ」の必然としての融合

つづくオン・マイ・オウン―フルメタル・パニック! (富士見ファンタジア文庫)


で、フルメタです。長編がシリアス、短編がギャグという点では前の二つと変わりません。違うのは、前の二つにおいては時間軸的に短編が長編の前にあり、その限られた時間の中だけで話が展開していたのに対し、フルメタはどちらにも同じ時間が流れていること。また、どちらも宗介の世界への身の置き方、というテーマは同じで、それがシリアスな方向に向かうか、ギャグの方向に向かうか、というベクトルの違いでしかない、ということ。そして、前二つは長編がまずあって、短編は後から始まったものであるのに対し、フルメタは長編1巻刊行から数ヶ月前、ドラゴンマガジンでの短編連載が先行して開始していたということも興味深いです。前二つに比べて、両者はより明確に対立する概念として描かれているのではないでしょうか。


テーマがテーマだけに、死を描くということに関してフルメタは「オーフェン」「スレイヤーズ」以上に長編短編ではっきりと区別しています。しかし、それ以外はというと、どうでしょう。長編世界の住人であるはずのマデューカスやテッサが陣代高校を訪れたり、逆に陣代高校の面々が戦いに巻き込まれたり、頻繁に関わり合っていたように思います。二つの世界の境界は曖昧で、初期から相関関係にありました。


これらの要素を考えると、二つの世界がいつか合流する、というのは必然だったのかなあ、と思います。


……そういえば、「蓬莱学園」は長編でも短編でも基本的に人死にが出ない話でした。