僕はかぐや姫/松村栄子/福武文庫

僕はかぐや姫 (福武文庫)


表題作他1篇収録。

僕はかぐや姫

地方都市高偏差値女子高の文芸部に所属し、自分のことを「僕」と呼ぶ女子高生の話。昨年度センター試験の現代文に出題されて、一部で話題になった作品。第9回<海燕>新人文学賞受賞作。


ネットで感想を読み巡っていると、専らセンター試験絡みでこの本を知った、もしくは思い出した人が多いようです。その中に、「僕っ娘萌え小説や百合百合小説として読めないこともないけど、それじゃ勿体ないよ」というのがありました。……うーん、どうなんでしょうね。


私も含めて、感想書きの人で「〜的な読み方」「〜として読むと」という表現を使っている人は多いんじゃないかと思います。「軍オタ的な読み方をしちゃうとこの作品は粗が見える」「この作品はミステリーとしては駄目だけど、キャラ萌え小説としては及第点だ」「この作品をSFとして読むのは正しくない読み方だ」「感想を書くために読んでると真の意味で楽しめない」などなど……。でも、ここで言う「読み方」というものに対して、私は非常に懐疑的でして。例えばライトノベルの場合、ラブコメ的なサービスシーンだけ読んで後は飛ばす、というのなら確かにそれはそういう「読み方」でしょう。しかし、基本的に皆同じ字を追っていくだけの作業に、「読み方」などというものがあるんでしょうか?……多分、何かしらはあるんだと思います。ただ、それは受験国語のテクニックのように、誰もがそれを自分に当てはめられるような杓子定規なものではない。それまでの読書経験とか、その時の心理状態とか、そういう非常に個人的な事情に左右されるもので、人に言われてどうにかなるようなものではないんじゃないかな。というのは、私が不器用だからそう思うだけなのかもしれませんが。


さて、翻ってこの作品。私は、自分のことを「僕」と呼ぶ女子高生の内面や、どこか退廃的な香りのする文芸部の雰囲気を楽しみました。テーマに興味がないわけではありませんが、そういったディティールと比べてどちらが魅力的かと言われれば、間違いなくディティールの方です。しかし、そのディティールは何のためにあるかと言うと、間違いなくテーマのためにある。


昔、Keyのゲームについて話をしている時、「kanon」キャラの口癖はキャラづけでしかないけど、「AIR」ではそれが密接にテーマと結びついているから、後者の方が作品として優秀だ、みたいなことを誰かが言いました。私はこの意見に賛同します。物語のテーマとキャラクターの魅力が密接に結びついているのが優秀なキャラ萌え作品の条件だというなら、「僕はかぐや姫」はまさしく優秀なキャラ萌え小説なんじゃないかと思います。


作中で、男子たちが文芸部の女子たちに、源氏物語で共感した女性の登場人物を聞いて、その答えによって女子を品評する、というシーンが出てきます。私の物語の消費の仕方は、あるいはこういうものと変わらないのかもしれません。


余談ですが、この作品の舞台であり、作者の母校である女子高、既に共学となっているらしいです。私の地元でも男女共学化が進んでるし、こういう小説も少なくなっていくんですかねー。

人魚の保険

オーストラリアから、共同事業を手がけることになった日本の企業に派遣されてきた男と、彼が日本で出会った女性の話。こういうのってバブル崩壊後の考え方なんですかねえ、とか思いました。これの単行本版が出版されたのが91年なんで、時期的に微妙。全く的外れなことを言ってるかもしれません。