インフィニティ・ゼロ 冬〜white snow/有沢まみず/電撃文庫

インフィニティ・ゼロ―冬‐white snow (電撃文庫)


マジシャンの父親に連れられて旅行中の主人公は、街で不思議な女の子に出会う。猫の死骸を抱いて意味の分からないことばかり口走る彼女は、なんと千年もの間化け物どもを退治してきた一族の巫女だった。第8回電撃ゲーム小説大賞<銀賞>受賞作。


kanonかと思ってたらAIRでした。奇抜な台詞回しに重きを置いたキャラクター、抗えない運命に抗う可哀想な女の子、どう考えても終章ラストで死んでいたはずの女の子がエピローグでは生きている。その間を繋ぐ「奇跡」。ついでに、目のやたら大きいいたる絵を思わせる挿絵。箇条書きマジックではないですが、これらの要素からKeyのゲームを連想せずにはいられない作品です。


Keyのゲームを評する時、ファンタジーや御伽噺といった言葉がよく使われます。これは、言葉通り魔法や幽霊といった超常現象が起こる、という意味もありますが、設定に具体性がない、ということをも指摘(揶揄?)しているように思われます。「kanon」で栞の病名が最後まで明かされないことなんか分かりやすいですね。一応、話を進めるために理屈は用意するんだけど、それを肉づけすることはあまりしない。「不治の病」は「不治の病」。それ以上の説明はしない。「インフィニティ・ゼロ」という小説にKeyのゲームと違うところがあるとしたら、そこだと思います。ヒロインの女の子は、千年の間、魔物を退治してきた一族の一人で、巫女として神様をその身に降ろして戦う。しかし、何度も巫女として精神世界を覗く内、やがてそちらの世界に行ったっきり帰ってこれなくなってしまう……。成功しているかどうかはともかく、そこには世界観というバックボーンを設定しようという作者の意図が感じられます。それまで制御し切れなかった神様にあだ名をつけたら新たな関係を築け、制御できるようになった、という言霊信仰に沿った設定は面白かったです。



どうして作者がそうしようと思ったのかは分かりません。音楽やCGが後押ししてくれるゲームと違って、小説媒体ではあまりに抽象的過ぎると説得力がないと思ったのかもしれません。あるいは私の考えとは全く逆で、泣きゲーに伝奇要素を加えようとしたのではなく、伝奇小説に泣き要素を入れようとしただけなのかも。もしくは、こんな考えも浮かびます。以下

きらきらした瞳が印象的な子だった。彼女が立っているのは、ちょうどI銀行の前。ショーケースの中にはもこもこと冬服を着込んだ清純派タレントの特大パネルが飾られていた。別に少女は意図してそこにいる訳ではないのだろうが。似たような服装のタレントと少女、それぞれが抱えているタイヤキの詰まった紙袋とズタボロの猫の死骸が、不気味なコントラストになっていた。

「それで、君は彼女の"悲惨"な運命を聞かされて、同情する。高みからね。意に添わぬ命令で強制されて、化け物と戦うなんて、なんて可哀想な女の子なんだってね。だから、君はちっとも考えない。この子が自覚を持って、ここにいるかもしれないということを。全てを甘受する覚悟で戦っていることを……君は見ない。ただ、この子を自分より下に見て、彼女の意思というものを一切、考えようとしないんだ」


どちらも本文の引用なんですが、どうも私にはこれがKey……というか一連の「可哀想な女の子」を売りにする(と思われている)泣きゲーへの批判と思えてしまう。実は作者は、「可哀想な女の子」へのアンチテーゼとして、自立した、戦う女の子を生み出したかったのではないか。そして、そのために設定上、病気や呪いなどではなく、明確な敵が必要だったのではないか……と思わなくもありません。


ただ、それが成功しているかというとまた別問題。敵は最後まで意志というものがまるでない蟲。ページ数の都合のためか、展開は駆け足気味で、主人公がヒロインを好きになる過程も説明不足。作者がチャットでなりきりしながら固めていったというゼロのキャラはよかったのだけど……なんかこう、あざとさが足りませんでした。


物語るために架空の世界を作り上げるのがファンタジーで、先に架空の世界を仮定してそこに生まれた制限から話を作るのがSFなのかなあ、なんてことをふと考えました。